当時、東大進学率・人数では都立日比谷高校が日本では断トツのトップでした。私が高1の時にその日比谷高校の岡田先生(数学)がこの高田高校に教えに来ていました。日本の全高校の中で最高の学力優秀校である日比谷高校から、今で言う偏差値が僅か50程度の高田高校に来て同じ教え方をしても理解出来る訳もありません。数学は2科目あって《代数》と《幾何》でありこの先生は幾何の担当でした。今でも覚えていますがこの科目だけは授業の度に先生が出席番号順に生徒の苗字を呼び捨てで読んで質問をし、厳しく答えを要求していました。ただ単に《分かりません》と言っただけでは許してもらえず、黒板の前に立って考えていなければならなかったのです。そして暫くの時間が経過してからやっと自席に戻る事が許されました。要するに授業のやり方は先生が積極的に教えるというのでは無く、生徒に質問し答えさせて進めて行くタイプでした。ですから中々前へ進めませんでした。この先生が本来教えている日本一の日比谷高校とは本質的・基本的に学力レベルが全く違う落ちこぼれ高校なのですから、中々正解を出せない中で稀に正確な答えをする生徒が居ると、この先生はこう言って喜んでいました。《そうだ!》と。私にとっては恐怖の時間でした。何故なら全然分からないのですから。毎週土曜日の1、2時間目の授業でした。ですからこの2時間が終わるとほっとしたものです。他の先生の授業では生徒達の私語が珍しくありませんでしたが、この2時間ではそれが絶対にありませんでした。1週間の総授業時間は34時間でしたが妙にこの2時間だけが極度の緊張感に包まれていました。しかしこの先生(正確には日比谷高校講師)も授業には関係無い世間話として理屈に合う事を言っていたのが印象的でした。それは当時の国鉄(現在のJR)の事です。《国鉄がストで動かない時はタクシーで学校へ来るんだ。そのタクシー代は国鉄に請求するんだ。何故なら国鉄の責任で電車が動かないんだからそれが当然だ》と。《成る程》と感心しました。でも私はそれを国鉄に請求しませんでした。何故ならその先生の理屈は合っていますが、現実の問題として国鉄がそんな金を出す訳無いと理解していたからです。今だから思うのですが当時その先生にこう質問をしていたら何と答えたのでしょうか。《先生はそれを国鉄に請求してゲット出来たのですか?》と。この先生は軍隊経験があったのかちょっとしたミスがあると《元い!》と言っていました。それにしてもこの岡田先生は赤点を付けるのがお好きで、10人以上の生徒がその犠牲になっていました。我々にはとても厳しい先生でした。1997年に瑤子先生と私が新宿のホテル(パークハイアット東京)でデートした時に岡田先生の事をこう語っておりました。《もう故人になってしまったけど、とても気さくでいい人だった》と。私もその人間性に触れてみたかったと思いました。
《庄司先生》(数学=代数)
この先生は成績の付け方に関してはかなり甘い教師でした。例えば中間・期末試験で0点を取っても成績通知表では赤点を付けないので、私みたいに数学大嫌い人間には非常に有り難い先生でした。試験問題は5問あり解答を書いて間違っていても、書かなくても1問に付き100点満点で5点を付けてくれるので25点になります。そうすると10段階評価で3になるので赤点にはならないのです。その先生も黒板に向かって問題を解いて答えをスラスラと書いている時に、たまに間違いを起こしその時はいつもこう言って笑って誤魔化していました。《こうゆう間違いをしちゃいけないという見本だ》と。この先生は私の3年間の高校生活ではフルに付き合いがありました。しかし同じ数学を教える先生でありながら岡田先生とは正反対で、この庄司先生は大学の講義をする教授の様に一方的に授業をするので楽だったけど眠かった事が記憶にあります。岡田先生とは正反対で生徒には一切質問をしませんでした。一方高1の時の岡田先生の数学は恐ろしい位の緊張感がありました。同じ数学でありながら先生の性格によってはその教え方に正反対の方法がありました。私が高3になってこの庄司先生は担任になったのです。しかしこの先生は大学への進学指導に関しては余り熱心ではありませんでした。一度私は《明治か法政はどうか?》と相談した処《人数が多いからな》と言っていただけでした。しかし教室で生徒達に対し《50万積めば日大に入れてやるぞ》と授業中に正々堂々と裏口入学を勧めていました。私はこの話を家に持ち帰って親にしたのですが拒否されてしまいました。誰もこの話に乗った生徒は居なかった様です。何故なら日大より上のレベルの大学を狙っている人が多かったからです。ある生徒が《六大学ならともかく、日大で50万は高いよ》と言っていました。当時の大卒初任給が2万円強で、現在の同初任給が20万円強ですから、今の裏入の相場は500万円以上という事になります。
《高久先生》(国語=現代国語)
面白い実験をした教師がこの高久先生でした。1年と3年の現代国語を受け持っていたのです。私が高3の2学期の期末試験(卒業試験)と同時期に高1の期末試験に同じ問題を出したのです。それは《素朴》という漢字を1年と3年に書かせたのです。しかし3年より1年の方に正解者が多かったのです。《そんな事で大学受験は大丈夫なの?》とこの先生が笑っている様な気がしました。
《山口先生》
1年の時は古文、2年の時は現代国語の先生でした。授業中生徒の私語が多かったのでよく蝿を追い払う様な仕草で《うるさい、うるさい》と言っていたのを憶えています。
《早川先生》(化学)
この先生が試験の監督をやった時の事です。ある生徒がカンニングをやったのですがこの先生は穏やかに《駄目だよー》と言っただけで、それ以上の追求をしない甘い先生でした。
《桑島先生》(社会=日本史、世界史)
早稲田大学大学院出身の《博士》で妙にオカマっぽくナヨナヨした人でした。この先生は私が高1の時には日本史を教えていました。1年のある時私は黒板に《桑島=女》と書きその先生の登場を待ちました。それを見たこの先生は《誰だ、こんな事を書いたのは!》とマジギレして怒っていました。私を含めて全員が大笑いしていました。後年そのオカマ先生は自分の子供を東洋英和に入れようと思って瑤子先生に接近しましたが、瑤子先生はそうゆう事が大嫌いな先生なので失敗したとの事です。それにしても《博士先生》が《裏入》を本気で画策するとは何をか言わんやです。
《岸本先生》(社会=地理)
この先生は面白い事を言っていました。高1の授業で『《太平洋》の《大》の文字に《、》が付くのに《大西洋》には何故《、》が付かないのか?太平洋にはハワイがあるからか?』と。しかしその先の正解を何と言っていたのかは大変残念な事に記憶がありません。田所は藤森先生とトラブルがあり何回か連続してその体育の時間を欠課していました。その体育の次の授業がこの地理であり、この地理の先生は毎回この欠課の事を指摘していました。
《羽田野先生》(社会=地理)
高2の時の授業中私語をする生徒が居たので怒っていました。《授業を真面目に聴いている人が迷惑だ!出席扱いにするから外に出ろ!》と。まあこの程度の高校だったのです。
《山田先生》(生物)
1年の時でしたが生徒の座席は5列でした。その中の先頭に座っていた星野の黒川靴が手入れをしていない汚い状態だったので先生はこう言いました。《靴くらい磨いて来い》と。
生きた蛙を解剖したのもこの先生でした。
この先生の印象的な発言は次の通りです。
色々な事情で家に居られない奴も、家賃が払えないでアパートを追い出される奴もいるだろう。そうゆう時は俺の所に来い。いつでも面倒を看てやるぞ。ただし女のケツを追いかける様な奴は追い出すぞ。
結構いい事を言う先生だと思いましたが口先だけなのか本当だったのかは分かりません。
《小松先生》(書道)
高1の時の芸術は書道でありこの科目の小松先生は非常に高い点数を付ける主義の教師でした。その小松先生が評価の事でこう言っていました。《本当は全員に100点を付けたい。しかし色々言って来る人が居てそうは行かないが、点数の事では皆さんに喜んでもらえればそれでいいのです》と。そうゆう意味では評価の数字に拘りを持たない善意の教師でした。私は他の科目は軒並み悪かったので実に有り難い先生でした。今お会い出来るのなら是非!という心境です。
《藤森先生》(保健体育)
この先生の本業は日本学園であり高田高校には副業で教えに来ていました。この先生の印象的な言葉は次の通りです。《本当の友人を作るのは今だけだぞ》。高田高校は体育館が無かったので雨の時は体育では無く保健の授業となりその時の言葉でした。余談ですが今の高校で体育館が無いというのは到底考えられないでしょう。
《戸嶋先生》
大学の先生だけあって、大学内での授業・試験とはどうゆうものか私は高校時代にそのノウハウをマスターしました。そのお陰で私が入学した大学では、首席で卒業した男より英語の成績だけは私の方が勝っていました。
《田中先生》(英語)
60歳過ぎと思われる英語担当の大学受験予備校の校長・田中先生が高1の我々の教室で実際に予備校で使っているテキストを用いて大学受験英語を教えてくれましたが、難しすぎて全く分かりませんでした。英語赤点の生徒である私に向かって《これが東大の問題だ》《これは外大の入試だ》《それは慶応の過去問だ》《あれが去年の早大だ》とか言って私に答えを求めて来ても全然分からないので黙っていると、《それ位分からなくてどうするんだ!駄目じゃないか!》と私の耳元で大声で怒鳴っていました。だから本当に迷惑しました。でも大声は地声でどうしようもなかったと思われます。しかし中学英語の基本中の基本を全く理解していない高1の私に向かって大学受験英語を教えても《猫に小判》そのものでした。この先生も生徒に回答を要求するのがお好きで稀に誰かが正解を出すと喜んでいました。出来る奴は出来ましたが私にはチンプンカンプンでした。この先生の中間・期末試験の出題方法は何時もワンパターンなので私が2年の時は80点〜100点、3年の時は90点〜100点を取っていました。この先生も私の高校時代3年間授業での付き合いがあり高2と高3の2年間は校長先生でした。
《清水先生》(英語)
清水先生とも英語で3年間の付き合いがありました。教科書の事ですが1、2年では副読本、3年ではリーダーでした。彼の口癖はこうでした。《我々に付いて勉強すればいい大学に入れて見せる》と。確かに過去の卒業生の進学先は優先入学や特別入学枠のあった日本大学と亜細亜大学を除けば、高校が高田馬場にあった立地関係上早稲田大学への進学者が一番多かったという記録があります。その他慶応大学等一流大学への進学者も結構居ましたからこの先生の言葉に嘘はありませんでした。しかし国公立へ行った者は居ませんでした。この高田高校は英語教育に力を入れていた学校であり、当時の外大の1次試験は英語のみでありそれをパスした生徒は居たのですが2次試験で阻まれていました。我々の時代は前述の大学への優先入学や特別入学の枠は特に無く、今みたいな推薦入学という制度もポピュラーでは無かったので皆ガチンコ勝負で大学入試に挑んでいました。過去の卒業生の中には凄く根性のある先輩が居ました。それは一旦亜細亜大学に入ったのに猛勉強して翌年早稲田大学に入り直した猛者が居たという話を清水先生がしていました。でもこれは特別な例外でした。私のクラスは皆アジャパー(亜細亜大学)とポン大(日本大学)は嫌がっていました。《そこ(亜大)へ行くのは死んでもいやだ》と言っていた奴が結局そこを卒業して今以ってしっかりと生きています。
修学旅行の出発前に清水先生は《勝手な事をしてはいけない》とこう語っていました。《何年か前の生徒で一人だけ修学旅行先で勝手に居なくなって大騒ぎとなり、それ以後の予定に狂いが生じてめちゃくちゃになった》と。
《高野先生》
1年の途中迄英語のリーダーを担当していました。《RESTAURANTはレスタウラントと覚えればいいんだよ》と言っていたのが印象的でした。何故ならローマ字読みを奨励する感じがしたからです。最もその単語の覚え方はその先生から言われる前に私は自分勝手に《レスタウラント》と思っていました。ですから英語の先生なのに私と考える事は同じなんだと感心しました。
《蒔田校長》(英語)
蒔田校長は私が1年の時の校長先生であり英語(リーダー)の先生でもありました。《俺・お前と呼び合える友達は今しか出来ないぞ》と言っていたのが印象的でした。蒔田校長は1年の時に教室で授業中にこう言っておりました。《私は坊主頭が好きだ、高校生なら高校生らしくするのが一番だ。坊主なら多少成績が悪くても考慮する》と。私は多少成績が悪いどころではなくビリから3番で赤点が3科目(高1の1学期)もある最有力の落第候補生だったので嫌だったのですが速攻で坊主にしました。坊主にするなんて生まれて初めてだったのです。処で当時の学力日本一の高校は都立・日比谷高校でしたが、私が入学した時の昭和39年度の高田高校の入学案内書には蒔田校長がこう語っておりました。《日本一の高校となる自信がある》と。その日本一とは学力なのか、スポーツなのか、学校の規模なのか、人数なのか不明ですが、これは単なるパンフレット上の美辞麗句だったのです。何故なら私が入学した2年後に生徒募集停止、そして更にその3年後に廃校になった現実を考えると明らかにその記載事項は事実に反する《嘘》そのものでした。教育に携わる人の言動であるだけにとても残念に思いました。
私が高校時代3年間に学んだ全教師名(科目)は次の通りです。フルネームが判明しない方は苗字だけを掲載しました(あいうえお順)。
尚◎印は3年間付き合いのあった先生方です。
教師氏名・・・(科目)
阿部茂光・・・(数学)
磯貝瑤子・・・(英語)1,2年次の担任
板倉徹夫・・・(弓道)
岩井滋郎・・・(美術)
大塚滋子・・・(物理)
岡田章・・・・(数学)
岸本実・・・・(地理)
国富信一・・・(地学)
黒田・・・・・(国語—古文)
◎桑島禎夫・・・(日本史、世界史)
小松茂美・・・(書道)
◎清水佐平治・・(英語)
◎庄司誠之助・・(数学)3年次の担任
関口甲子男・・(政治・経済)
高久芙美子・・(国語ー現代)
高野・・・・・(英語)
◎田中饒・・・・(英語—昭和40年度、41年度の校長)
◎戸嶋俊三・・・(英語)
西勝忠男・・・(倫理社会)
羽田野・・・・(地理)
早川正賢・・・(化学)
林常雄・・・・(数学)
◎藤森喜代一・・(保健体育)
蒔田榮一・・・(英語—昭和39年度の校長)
松本猶造・・・(弓道)
夜久正雄・・・(国語—現代)
山口昌男・・・(国語—漢文、現代)
先生の合計数27名



