東京都新宿区 高田馬場駅前にあった私立高田高校昭和42年3月卒業生の回顧録

〜目次〜

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序章
《前 文》
第一章
《入学前》
第二章
《高校受験案内書》
第三章
《高校時代の成績》
第四章
《英語の教科書》
第五章
《生徒手帳》
第六章
《各生徒》
第七章
《親友・田所誠一郎》
第八章
《各先生》
第九章
《恩師・磯貝瑤子先生》
第十章
《修学旅行》
第十一章
《ガール・フレンド》
第十二章
《当時の昭和史》
第十三章
《全卒業生名簿》
第十四章
《高田高校概略》
第十五章
《雑記》
第十六章
《編集長と著者》
あとがき
《総決算》
参考資料
《当時の記録》
さよーなら!
《別れの音色》

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第九章《恩師・磯貝瑤子先生》

磯貝瑤子先生のスピーチ 
 ○○君、おめでとうございます。今日はお招きありがとうございました。皆様方恐らくご存じ無い高校時代の事でございます。少し私の印象に残っております可愛らしい童顔の頃の新郎をご紹介したいと思います。今、司会をしていらっしゃいます青年始め、その周辺に固まっております方々悪童と共に、非常に悪い事も色々としましたし、また真面目に勉強もした青年の一人でございます。現在私は大変お育ちの良いお嬢様の大勢いらっしゃる学校に勤めておりますけれども、当時この○○君のおりました学校は大変それに比較しますとささやかな学校でございますし、大変むくつけき男性が多く中には新聞配達をしながら、或は牛乳配達をしながら自活をしながら学んでいる生徒もおります、大変元気な子供達の多い学校でございました。その中で本当に私がその学校に初めて行きました時は男子の学校に初めて就職しましたので恐ろしくて堪らなかったのですけれども、今より随分昔の話ですから私もまだうら若い女性でしたし、恐ろしい男の子達に囲まれていったいどうなる事かと思ったものでございます。その中にありましてやはり○○君の存在というのは、そうゆう大変恐ろしい不良の様な一見何だか殺されそうな大きな子供達の中で余り目立たない存在でございました。教師というものは大変良く出来る生徒か、或は非常に出来ない生徒か、大変悪い事をする生徒が印象に残るものでございますけれども、そうゆう意味では全然心配の要らない生徒という風に最初目に映ったのでございます。中には授業をさぼって麻雀屋へ飛び出して行ったり、或はこそこそ煙草を吸ったり色々と他所の学校の子供と喧嘩をしたり、警察沙汰になる様な子供も居たり色々する中でそうゆう心配の全然いらない生徒という事で、実は私自身余り気に掛けないで安心していられる生徒でございました。それなりに余り印象に残らないままに居たのですけれども何か心の中で先生に反抗しているのじゃないかしら?と言う様な奇妙な危惧を感じたりしながら毎日顔を見ていたのですけれども、処が一年、二年と経って行きます中にそうで無い事が良く分かりました。ご覧の様に大変眉毛が濃くて意思が強く真面目な面持ちをしております。ご覧の通りの青年ございまして勉強に対しましても大変優秀とは申しませんけれども、非常に真面目に自分の出来るだけの力を尽くして一生懸命の姿勢を絶えず保っておりました。私は英語を教えておりましたけれども、その英語の中では私が特に残っていますのは多分、仮定法が弱かったと思います。それから関係代名詞の目的格の用法に大変弱かったと今でも記憶しております。しかしその事を指摘しましても必ずその事に挑戦して一生懸命何とかそれをものにしようと頑張る子供でございました。それがそのまま成長して行ったと思います。そして一見目立たない中で反抗しているのではないかとすら思える程、余り色々と言葉に出さない生徒でございましたけれども、そうゆう生徒が卒業してから必ず年賀状、暑中見舞いを欠かさず私如き者に絶えず色々と報告を大学進学、或は就職等の事を知らせて来ておりました。ただこの様に美しい新婦を得られたという事は、実は私が丁度この8月の末迄ヨーロッパに居りましたものですから恐らく報告が直にはして戴けなかったのではないかと思いますが、帰って参りました途端にその様なお知らせを受けた訳でございます。で、私はその時その新婦の方はきっと立派な方に違い無いと思いました。こうゆう風な○○君の様な人の人柄を見抜く事が出来るお嬢様であればきっと大丈夫だろうっていう風に思ったのです。大変誠実で余り目立ちませんけれども、心の中に秘めた物が大変強いという事を私3年間の○○君の生活を通して良く感じて参りました。多くの子供達をもう30年近く教師をしておりまして見て来ました中で非常にあっと印象には残らないながら非常に強い物を秘めた、そしてこつこつと築いて行く青年だと今でも信じております。ですから先程どなたかおっしゃいました様に、奥様におなりになった方が優しいからお小遣いを沢山お上げになるかも知れませんけれども、こちらの新郎は決してそれを無駄使いする方ではございません。きっと将来の子供の為に、家庭の為にこっそりと貯蓄をなさる方だと信じておりますので、安心して沢山お小遣いを差し上げになったらいいのではないかと思っております。私が一番願います事はこれから赤ちゃんがお出来になり、新しい家庭が築かれて行く訳ですけれども、どうぞ自我を殺す事によって平和を作り出して戴きたいと思います。自分が偉くなろう、自分がこの家庭で良くあろうという事では無くて、自分を抑える事によって周囲が良くなり、また全体の社会が良くなって行く事をお忘れ無くお願いしたいと思います。海外で得ました色々な経験の中で一番私が印象に残っておりますのは、その子供の教育が他人や大人に決して迷惑を掛けない様に育てる事が一番厳しい海外の心情であると思うのです。日本の良いところは沢山ございますけれども、学ばなければならない外国の良いところは一番それではないかと思っております。どうぞお子様を育てて行く上にも自分の家庭の中で、そして人に負けない良い子なろう、そうゆう教育ではなくて、抑えに抑えてそしてどうぞ大人の迷惑にならない、社会の迷惑にならない、その事によって成長して行く立派な家庭の一員としてお子様を育てて戴きたいと心から願っております。その事によってそうゆう家庭が一つ増える事によって、恐らく日本の社会も非常に美しい平和な物が築かれて行くんじゃないかと、一つ一つの家庭に望みたい事の一つなのでございます。そうゆう意味でどうぞ今迄の良い意志を保ちながら立派な家庭を築いて下さいます様にと心からお願い致します。
 おめでとうございました。


 以上の話は私が1976年10月9日(土)に結婚した時の披露宴に於いて磯貝瑤子先生から戴いたスピーチです。その全文を掲載し、音声による出力を実現させた結果よりリアルな内容に仕上げる事が出来ました。
 では次に瑤子先生から戴いた高田高校に関する談話を掲載致します。これは旧HP(高田高校)執筆の為に瑤子先生から2004年の夏に戴きました。
 私の妹が早大に受験する前に通っていた当時の予備校が高田外語であり、その校長先生が後に高田高校の校長になる蒔田先生でした。私は戦後GHQの仕事をしたり、アメリカから来た宣教師の通訳や手伝いをした後、小倉の名門ミッションスクール・西南女学院で教えました。その後東京に戻り離婚経験の中である貿易会社に勤めつつ、本来の夢であった教師に戻るべく働き口を探していた矢先に蒔田校長との出会いがありました。若い女好きの蒔田校長は一発で私を雇って下さいました。私の《出来が悪い乱暴な男の子を教えたい》との希望が気に入って戴けた様でした。校長が言うには《英語は女性が教えるべきだ、発音も男は駄目、しかも健康で生きのいい女性が美しい発音で楽しく威厳を持って教えれば力が付く》と。当時私は幼い子供を育てながらの仕事でしたが、とてもやりがいがありました。ではほんの一部ですが印象に残っている各生徒の記述を簡単に報告致します。
① 授業料を使い込んで事務所から文句が来たので私が立て替えたのにそのままドロンした生徒。
② 本屋で万引きした子。その為警察とは親しくなりました。
③ 《赤点を付けやがったら夜の帰り道に用心しろ!》と脅す生徒。
④ 《これから親父を殺しに行くから付き合って欲しい》と迫る生徒。
⑤ 《金を脅し取られる事になっているので一緒に来て欲しい》と言う生徒。この時は弓道の板倉先生とその現場に一緒に行きました。
⑥ 《恐ろしくて教室に行けません、助けて下さい、生徒と喧嘩をしたけど負けました》と若い新任の先生(男性)から泣き付かれた事もありました。
しかし乱暴な生徒も女教師の私には素直で従順でした。それは私が常に生徒の立場に立って考え・行動していたせいかも知れません。でも生徒が宿題を忘れると職員室で逆立ちをさせました。それに対して誰も文句を言いませんでした。逆にそれを見ていた蒔田校長は手を叩いて喜び、職員室を訪れるお客様にも《この先生は女だてらに生徒が宿題をしないと逆立ちをさせるのです、でも誰も文句を言わない》と宣伝されて恥ずかしかったな。
 勉強もろくにしないで遅刻ばかりする生徒達の為に野球部を作って上げたのも強烈な思い出です。やっと9人集まって東京都大会では新聞に迄出て《女性顧問》何て言われて恥ずかしかったよ。でもそのおかげで以後野球部の生徒達はちゃんと勉強もして遅刻もしなくなったのです。私の教師生活の中で一番充実してやり甲斐のある教育の現場でした。こう言うと悪い生徒の学校みたいですが、いい子の方が圧倒的に多く私にとっては可愛くてたまらない生徒達でした。その楽しさを帰宅して息子に話すと《先生ってそんなに面白い?》と聴かれ幼心に焼き付いたのでしょう。ですから飽きっぽいはずの息子が20年以上も聖学院高校で英語を教え、野球部の監督を務めているのです。そして彼の子供(私の孫)迄同じ高校で甲子園を目指していました。彼の夢は大リーガー選手でした。でもその総ての原点は高田高校の野球部にあったのです。何故なら彼の父親、つまり私の息子ですが幼少当時私に連れられて高田高校の野球部合宿に来ていて、大変野球が気に入ったからです。
 東京都の区画整理の影響と経営者の思惑や都合で高田高校は無くなりましたが、私はその少し前に東洋英和女学院からお招きを受け、もう年齢も進んだので男子校は無理と思い、穏やかな女子の名門校に移りました。今迄高田の生徒に会って《オッス!》と挨拶されていたのが、いきなりお嬢様学校で《ごきげんよう》と頭を下げられて面喰いました。私の本音は柄も出来も悪い男の子の方が向いていると実感させられました。
 瑤子先生の高田高校に関する談話は以上です。
 では次に私から見た瑤子先生について証言致します。
  瑤子先生は私が高校1,2年当時の担任の教師でしたが英語教育に熱心で私の他に出来の悪い生徒達に放課後或は夏休み補習という形で熱心に教えてくれました。その先生が言うには《本当は中学での成績が5段階評価で最低の1の生徒を教えたい、何故なら《2》なら確実に良くなるけど《1》だと未知数だから》と。そんな事を私達高校生に言っても仕方無いよね。でもその時私も中1で成績が最低の《1》になりたかったのです。何故ならその先生が好きだったからマンツーマンになりたかのです。私は無意識の中に先生に恋をしていたのかも知れません。その先生は《中学で1の生徒が居れば金を出してでも教えたい》と語っていました。余談ですが私の中学時代の英語の成績は1か2でしたが3年になってやっと人並みの3になりました。処でこの瑤子先生が私のクラス担任だったのは1年と2年の2年間だけでしたが、3年になったら担任でも無ければ英語だけで4科目もあるのに1科目の担当でも無いのでガッカリしました。先生が逝去される直前のクラス会は2006年の11月3日(金)に行なわれました。その時に私はその点を瑤子先生に尋ねた処それは清水先生の意向であるとの返事でした。推定ですが清水先生は教員の人事に関しては権力や権限のある教師だった事になります。高3になって瑤子先生とは殆ど顔を合わす事も無くなりましたが偶に校内で会ったりすると胸がドキドキしたものです。無意識の中に好きだったのでしょう。
 高1のある日の午後の出来事でした。私は眠そうな顔をして瑤子先生の授業を受けていました。そしたら突然先生から指名されて答えを要求されました。二者択一の答えだったので適当に答えたら正解だったのでほっとしました。それにしてもよく見ている先生であり油断も隙もあったもんじゃ無いと実感させられました。この先生の担当は1年の時は文法、2年の時はリーダーでした。
 同じく1年の時でした。夏休みでしたが私は学校に来て弓道の練習をしていました。高田外語の講師もしていた瑤子先生はいつもその練習場の脇を通って行くので、私は成績が悪いので不安を感じて先生に救いを求めて相談した事もありました。その具体的な中身は忘れてしまいましたが、私は先生に甘えていたのかも知れません。
 2006年11月3日(金)のクラス会で最後に先生とお会いした時に高田高校のレベルについてお尋ね致しました。上・中・下のどれかと。その答えは下でした。せめて中と言って欲しかったのでちょっとガッカリしました。しかしまあこんなものだったのでしょう。何故なら中学での平均成績がオール2程度の私が入れたのですから、そう思えば納得出来ます。
 瑤子先生から高田高校に関するアンケートの返事を戴きましたが、その時次の手紙が同封されていました。その本物は感熱紙の為印刷が薄くなってしまい、コピーでは文字がはっきり判りませんので以下原文のままワード処理をしました。尚この手紙は瑤子先生が亡くなる二ヶ月前に戴いた物です。

○○君
 いろいろお手配や、ご連絡やらありがとう。アンケートは当日持参いたしますが、おかげさまで、過去のことを数字的に振り返るチャンスを与えられました。もう30歳(傘寿)(80歳)というのに、過去を忘れ、未来に生きているので、まったく過去の数字など念頭になかったのです。アンケートには書ききれないいろいろのことを、この際報告します。
 終戦直後、アメリカの宣教師(南部バプテスト連盟)の秘書など1年ほどして、通訳やら翻訳やらをしました。その後GHQの民間情報局で翻訳の仕事(民間の手紙など検閲して訳す)、その後小倉の西南女学院専門学校(すぐ短大に昇格)英語科と高校に着任(西南はアメリカのバプテスト連盟によって建てられたもの)。その5年後に結婚のため神戸のミッションスクールに転任。次に離婚のため東京に戻り、目黒10中、東京文化高校、YWCA英語専門学校を講師兼任。その後高田高校へ。YWCAでの教師の同僚だった先輩からぜひとのことで東洋英和に転勤。60歳の定年後、YMCAで10年勤務(定年70歳)、そこでは高校卒の専門学校の生徒、韓国、中国からの留学生などに楽しく教えました。東洋英和在職中、及びYMCA時代に、数回アメリカ及びイギリスで研修、英米語の違いや、英語の方言の研究など。高校のテキストに出てくる土地や文学に直接触れることで知識を広めることができました。そして現在に至っています。現在は、個人教授で東大受験生、留学希望の生徒、英語の教師を目指す生徒、学校の授業とテキストがつまらないと言って高度な英語を学びたい生徒、うんと出来が悪くて、高2のくせに中2の基礎からやり直したい生徒など、今年は7人かかえています。教え子の孫やら子やら。その他、今はハンドベルの指導(1年おきに世界大会などがあって、その度に各国に行っています。去年はカナダ)。教会での英語のバイブルクラス指導。外国といえば、英、米、の他には、スイス、スコットランド、ドイツ、フランス、イスラエル、などに行きました。孫を連れてフロリダのオーランドのディズニーに行ったり、宇宙飛行のナサを訪れて、宇宙船にも乗ったり、研修以外は、孫連れか一人旅。(言葉の勉強のために)
 他の仕事としては、翻訳(「私のアントニーア」、宣教師の書かれた「キリストの同労者」—日本を憶えてー、福音賛美歌など)それから恥ずかしながら私の一生を書いたものもありますがこれは内緒。ちゃんと本になっています。でも1部の人にしか知られていません。詩や歌の翻訳は大好きなのです。
 まだまだやりたいことだらけ。若さは消えたけど、未来に向けて楽しみます。今はハンドベルが一番楽しいです。指導でなく自分でもっと演奏したい。教会でずっとオルガンも弾いていましたが、もう若い人にゆずりました。
 《私のアントニーア》について
 この本はもう絶版で売っていません。東洋英和在職中にテキストにあった文章の美しさに惹かれて、現地まで行って、土地や人柄に接し、翻訳権までとって、実際に花や動物を見て、方言に接して、夢中で訳したものです。先日、教え子の経営する神田の洋書店の倉庫から20冊ほど出てきたとのことで、ウチに送られてきたので差し上げます。狭いところに置いておいても仕方ないので。私が死んだら遺品になりますよ。
 終戦後最初に日本に来た英語の童話「かもさんおとおり」も私が最初に訳したものです。当時朝日新聞の推薦図書の欄に紹介されていました。数年前、ボストンに行った時、かもさんで有名な大きな池のある公園の付近では、この本がいまだに売れていて、「最初に日本語に訳して紹介してくれた女性が来た」と大歓迎されました。
 「私のアントニーア」はネブラスカ州のリンカーンなどでは著者ウィラ・キャザーの名とともに、ネブラスカ大学などには私の名もあります。学長からも感謝状が届いたりして。今もキャザー学者からは記念のお誘いもあります。おひまもないでしょうが、せめて「はしがき」だけでも読んでみてください。
 ではその「はしがき」の内容は次の通りです。
高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

 以上「はしがき」を掲載しましたが更に瑤子先生の手紙は続きます
 
 私の唯一の自慢は全ての職業を通して、お産と忌引きを除けば皆勤である事です。風邪とはどうゆうものかも知らず、頭痛、腹痛の経験もありません。こうゆうのに限ってころっとひっくり返るものです。だから明日の命もわかりません。大いに過去の生徒などに接しておこうとスケジュールを無理しても・・・。東洋英和女学院も創立121周年とあって、行事も多く、やれ定年退職者の会だの学年会だの、ハンドベルの演奏会だの、パイプオルガンのコンサートだの、お招きが多く、すべて忠実に参加しているありさまです。
 
 では私が瑤子先生から戴いた年賀状の最初(1965年)と最後(2006年)をここに掲載致します。その他亡くなる2ヶ月前に投函されたクラス会への出席の返事(2006年10月)、前回のH.P.作成の際に協力して戴いたのでお礼をしたのですが、その礼状(2004年10月)も掲載しました。
 瑤子先生に初めて年賀状を出したのは高校1年であった1964年の暮れであり、それが配達されたのは1965年の正月でした。それから先生が逝去される前迄つまり2006年の正月迄42年間続きました。出せば直ぐにコメントを書いて返事を出してくれる先生でした。そして2007年の瑤子先生宛ての年賀状は私が出そうと2006年12月17日に書きました。彼女が亡くなったのはこの日だったのですが、その訃報が私に届いたのはその翌日である18日でした。従ってこの2007年の年賀状は私が瑤子先生に出そうとして出せなかった幻の年賀状になってしまいました。
 瑤子先生のご冥福を心からお祈り申し上げております。
 
 2006年11月に行なわれたクラス会での話です。何らかの話題の途中で私は先生に死について怖くないか否か質問をしました。彼女がキリスト教徒である事を念頭に置いてです。先生のその時の言葉は、その後の私の心の中に大きな一石を投じました。それは次の通りです。
 《全然、だって私一人がこの世から居なくなるだけの事なんですもの、何とも思わないわ》 高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師

高田高校恩師


      瑤子先生からの補習を受けたある日の出来事
 瑤子先生から英語の補習を受けた高校1年当時(1964年8月6日)の日記があります。そのレッスン内容の記録はありませんが、その他の記述があります。しかしこの日の出来事は今現在全く記憶にありません。そうゆう意味では当時の私に何があったのかを知る、とても重要かつ大切な資料です。この日記は生涯死蔵するつもりで門外不出でした。しかしこうゆう形で日の目を見る事が出来てとても良かったと思っております。
 通常の授業では考えられないアイスクリームやドロップ等先生のポケットマネーだったのでしょうが、ありがとうございました。
 これはその日の日記のコピーです。最終行の《分》では無く《別》が正解です。 高田高校恩師
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