東京都新宿区 高田馬場駅前にあった私立高田高校昭和42年3月卒業生の回顧録

〜目次〜

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序章
《前 文》
第一章
《入学前》
第二章
《高校受験案内書》
第三章
《高校時代の成績》
第四章
《英語の教科書》
第五章
《生徒手帳》
第六章
《各生徒》
第七章
《親友・田所誠一郎》
第八章
《各先生》
第九章
《恩師・磯貝瑤子先生》
第十章
《修学旅行》
第十一章
《ガール・フレンド》
第十二章
《当時の昭和史》
第十三章
《全卒業生名簿》
第十四章
《高田高校概略》
第十五章
《雑記》
第十六章
《編集長と著者》
あとがき
《総決算》
参考資料
《当時の記録》
さよーなら!
《別れの音色》

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第六章《各生徒》

(出席番号順)
《井門哲二》
 それなりに自己主張するタイプの人間で背が高く優等生的でした。しかし自分より能力が下の者をバカにするダーティな部分もありました。卒業後から40年後のクラス会は大変残念な事に無断欠席でした。

《池上貞輔》
 彼は鹿児島県徳之島の出身です。上京してこの高校を卒業してから地元へ戻り、その後大成して超ハッピーでリッチかつ優雅な生活をしています。高校卒業後30周年を記念して瑤子先生を地元へ招き大盤振る舞いをしたそうです。流石に瑤子先生もその対応の素晴らしさに吃驚したそうです。このクラスの中では一番の出世頭かも知れません。彼は地元の政財界では有名人であり、愛人にも恵まれているとの事です。部下に対する面倒見も良く人望も厚いとの事です。この男は高校時代に《沼袋に住んでいるんだ》と言っていました。《池袋》という地名は誰でも知っている有名な街ですが《沼袋》なんて私はふざけて言っているのかと思いました。しかし調べた結果本当にあるとこの時初めて知りました。高1の時でしたが現代国語(夜久先生)の授業で先生に下らない質問をしていました。それは教科書に載っていた文章で《我々は毎日新聞を読む習慣があり・・・》という件で池上が先生にこう質問をしたのです。《これは毎日新聞の事なのか?》と。それに対し先生は苦笑いしてこう言っていました。《これは毎日新聞の宣伝じゃあ無いからね》と。《毎日、新聞と読むのが正解だ》と笑って答えていました。我々より歳は一つ年長でしたが、かなりのんびりとしたユニークな田舎者の《とっちゃん坊や》でした。

《石黒守彦》
 歳は私より一つ年長でしたが小柄で目立たない地味な生徒でした。

《石毛克弘》
 彼の性格は要領の良さが売り物で適当な大学へ行き、今はそれなりのサラリーマンです。文字と絵の上手さはダントツでした。彼は《俺は満月満太郎だ》と冗談を言っていたので私はその物真似をして予備校の模試の余白にこう書きました。《俺は満月満太郎(まんげつまんたろう)だ、女房は満月満子(まんげつまんこ)だ》と。そしたら添削員からの回答はこうでした《愚劣な冷やかし受験は止められたし》と。冗談を書いて恥を掻いてしまいました。バカな事をやったものです。しかし他人に迷惑を掛けた訳ではないのですからまあいいでしょう。でも採点は真面目にしてありました。英語50点でした。話が脱線してしまいましたが、この石毛との思い出話として喫茶店(ミカド)にどの位粘れるかやってみようと7時間も居た事があります。この店は毎日バースディープレゼントをやっていましたので私は行く度にもらっていました。何故なら誕生日である事を証明する必要の無いシステムで自己申告だけで貰えたからです。それはアルバムであり結局10冊以上溜まったのですが1冊も有効利用する事無く処分してしまいました。このプレゼントを貰う時はいつもハッピーバースデイテの曲が掛かっていました。一度歳を聞かれたので本当は18なのに23と答えたことがありました。他に石毛と二人でこの店で灰皿にマッチで悪戯をして係員から注意された事もありました。他に彼との思い出話として、次の事がありました。それは新宿駅南口を出て左に行くと階段がありそれを降りると粗末な小屋が何件かあり、そこでは厚化粧をしたいかがわしい女達が客引きをして、高校生の制服を着た私達に《ねえお兄さん遊んで行かない?》と言っていました。しかしそれにきつい吸引力と危険性を感じ足早に去ったものです。勿論一回も入った事はありません。しかし好奇心で何回かその前を通った事は事実です。でも石毛は嬉しそうにしていました。石毛とは法政大学へ下見に行った事もあれば、テレビ局の芸能部門でアルバイトをしようとした事もありました。石毛はよく年賀状では《クラス会をやろう》と積極的に提案していたのでその通知を還暦直前にしたのですが大変残念な事に無断欠席でした。

《磯谷健治》
 2年からの転校生です。2年の時に課題は何だったのか覚えていませんが彼が私にこう言ったのです。《〇〇に分かる訳ないよな》と。赤の他人みたいな奴にこんな事を言われてショックでした。

《梅原利光》
 彼は1年の1学期の成績は最下位クラスだったのですが2学期は奇跡的に急上昇しトップクラスになりました。この時《信じられない》と言って興奮していました。理大の夜間を狙っていたのですが上手く行かなかった様です。男前はイマイチでした。 

《大久保光晴》
 このクラス34名の中で唯一俺の記憶にありません。彼の存在感が乏しかったのか、私の頭がバカなのかボケて来たのか。いずれにしてもごめんなさい。

《堀口光一》
 理由は何だか分かりませんが在学中に苗字が《小黒》から《堀口》に変更になりました。割と好戦的な性格で弱い田中に《やるか?》とけしかけていましたが田中の返事は《やんないよ》でした。土屋がこう言っていました。《堀口が俺に一発入れたのでぶっ飛ばしてやった》と。

《川本敦》
 1年次から一番成績が優秀な男でした。その割にはエリートぶった処が無く庶民的な感じのする生徒でした。彼が私に成績表を見せた事がありました。それを側に居た井門が見せてくれと言っていましたが川本はそれを断りました。それにしても川本は成績が優秀で、例えば数学は2科目共10段階評価の10、その他の科目も軒並み8〜10で成績順位は断トツの1位でした。彼は高校卒業後中央大学法学部へ進学し更にその後山口県庁へ入ったのですが酒癖が悪く女に失敗して消えてしまいました。彼は性生活の事を英語ではSEX LIFEでは無くSEXY LIFEだと説明していたのが印象的でした。彼は成績が一番であるにも係らず私の様な劣等性にも対等に接していました。がり勉タイプの生徒では無く明るくお坊ちゃま的な性格はこのクラスで光り輝いていました。今流の言葉で言うとクラス一のイケメンだったかも知れません。

《鞍馬将夫》
 比較的体格のいい男でした。今は孫に恵まれているとの情報がありました。

《小木曽敬》
 ずっと弓道部で活躍していました。そのことで瑤子先生がこう言っていました。《根性がある》と。
 
《四宮健男》
 石毛と仲のいい友達同士でした。今は頭がすっかり白くなってしまいましたが、その顔つきと早口言葉は今でも変化がありません。

《鈴木信行》
 成績は最下位グループで性格的にはおとなしい根暗男で女には最も縁の無い感じの人間でした。妙に私には懐いていましたが・・・。肌の色はクラス一番の色黒でした。この男は高校卒業直後に知り合ったばかりの女と初Hをやってその事を私の家に来て彼の車の中で事細かに私に説明していました。私から質問したり、聴いたりした訳でも無いのにわざわざ報告に来たのです。それは実に生々しい内容なので参りました。初めての女性体験なので余程嬉しかったのでしょう。またそれを他に話す相手も居なかったのでしょう。結局そのまま《出来ちゃった婚》となり、その3年後つまり私が大学4年(1971年)の1月に田中と一緒に小平に住む彼の家に行ったのですが、幼児と赤子が《ピーピー》《ギャーギャー》と泣いており私達にはお茶の一杯も出さないという、とても残念な考え方の持ち主で呆れ果ててしまいました。勿論それ以来会っていません。噂によると彼はその後他の女に狂って不倫をしてついに沈没したとの事です。私と彼は高校3年(1966年)の9月30日に《銀座アスター》の就職試験を冷やかしで受けてみました。希望職種で私は《事務職》(第二志望は調理)で、彼は《配送職》で。その結果私は不合格、彼は合格。学校の成績は私の方が圧倒的に上だったのに。何故だ?多分職種の関係でしょう。いや、人間性を見抜かれたのかも知れません。処で彼とはたった1回ですが池袋西口にある100円床屋に行った事がありました。そこを出てから私は彼にこう言いました。《虎刈りだね》と冗談で言ったらマジに信じていました。ちょっと言い過ぎたかなと軽く後悔しました。 

《関正道》
 背が高くおっとりとした感じでした。

《関茂林三》
 何が原因だか分かりませんが授業中、古文の黒田先生から高2の時に頬に平手打ちをされてそのいい音が教室中に響き渡ったのが印象的でした。多分私語でもしていたのでしょう。
 数年前に私が彼の家に初めて電話をしました。クラス会に参加をするか否かを聴く為でした。彼の開口一番はこうでした。《誰が死んだ?》と。そんな常識を無視した対応はとても残念でした。同窓会の案内状を出欠葉書同封の上で出したのですが結局無断欠席でした。大変残念に思いました。

《高橋茂》
 体育の授業で何人かでマラソンをやった時の事、最初彼は一位、私はビリ、しかし最後は私と彼は同着一位でした。そのマラソンは体育の藤森先生の指導の下で西戸山公園を一周したのです。でも流石に最後は苦しかった事が記憶にあります。

《高橋信夫》
 体格のいい男で成績も優等生的でした。
《宝田芳夫》
 地味な感じでちょっとにやけた男でした。

《田所誠一郎》
 次の第七章《親友・田所誠一郎》にその詳細な記述があります。

《田中清一》
 彼の高3当時は大学の受験勉強があると言って付き合いが悪かったのですが、結局お受験は失敗し高卒労働者として35年間働きそれ以後はずっと趣味だけの悠々自適な独身貴族生活を楽しんでおります。彼の趣味は本を買う時は必ず帯付きであり、それを新書状態のまま保存するという大変ユニークな考えの人間です。現に持っている本でも帯が無いと重複しても帯付きを買うのです。過日彼はこれ以上本を置く場所が無いとの事で、時間にして30年以上、数にして1万冊以上、金額にして1,000万円以上の本を僅か35万円で売り払ったのです。他に彼の趣味は自分好みのCD(音楽)を買い集める事です。今現在持っているCDの数は5,000枚という事ですから1枚に20曲入っているとして10万曲にもなります。それを管理するのにパソコンを利用すればいいのにPCも携帯電話も拒否している今時非常に珍しい超アナグロ人間なのですが、殆どは彼の頭の中に入っており処理には困らないとの事です。流石に元東大受験生です。私だったらこの天文学的な数字はPC無しでは管理が絶対に不可能です。私と彼とは日曜日には新宿西口の超高層ビル又は高田馬場周辺で飲食をする仲でした。我々二人の高校卒業以来の集合回数は優に1,000回はオーバーしております。でもホモ達ではありません。念の為。
 高校生当時私と彼は帰る方向が途中迄一緒でした。電車の窓から見えた看板に《トルコ風呂》(今のソープランド)がありました。そして私は彼にこう言ったのです。《今度トルコに行こうぜ》と。そうしたら露骨に嫌な顔をされてしまいました。勿論冗談だったのですが適当に込んでいる車内だったので他の乗客に聞かれてしまったからでしょう。バカな事を言ったものです。この時彼は立派なリーガルの黒革靴を履いていたのに対し、貧乏な私は安物の二束三文の靴を履いていました。その時の会話です。
私《その靴を履いて城西大学へ行くのか?》
彼《そうだ、いけないのか?》
私《いや、大変結構な事だ。まあせいぜい頑張ってくれたまえ》
彼《よーし!やったるでー!やってやってやりまくるぞー!でっ俺は何をやればいいんだ?》
私《お前って調子者だな》
彼《お前には負けるよ、勝てないよ》
私《まあ、調子が悪くてブッスとしているよりはいいんじゃないの?》
彼《それもそうだな、お前の言っている事は間違ってはいないぜ》
私《俺の言っている事は常に正しいのだ、処でお前東大を受けるとか言っていたけどその話はどうなったんだい?》
彼《受けるだけでも箔が付くからな》
 まあこうゆう調子で出来も柄も悪い大昔の高校生同士の下らないノリの会話でした。
 この後デパートに行って私は間違ってエスカレーターを逆方向に乗ろうとしてエスカレーターガールから《あっ!僕!》と注意されてしまいました。私も《僕》と言われていたのですからいかに若かったかです。
 田中はクラスメートからはよく《インポ野郎》と言われていました。しかし20代の時には韓国や台湾に行ってしっかりと楽しんで来たとの事です。でも女性には余り興味や関心が無かったようで生涯独身を通す模様です。高田高校の道路を挟んで向かい側に都ホテルがありました。それは連れ込み旅館(現代語でラブホテル)でした。田中が私にこう言っていた事がありました。《この旅館で何人の女が処女を失ったのかな?》と。それに対し《俺がそんな事知る訳ねーよ》と答えました。それにしても彼はどうでもいい事ですが面白い発想をしたものです。
 田所は昔からの友情を大事にする男であり、私はその考え方に賛成。田中に言わせれば《昔からの付き合いや友情なんて関係無く今を生きるんだ》と。私もその考えにも反対ではありません。ですから私は昔妹からこう言われた事があります。《お兄ちゃんは田中さんと田所さんを足して2で割ったみたいね》と。私って中途半端なのかな?それとも調子がいいのかな?田所が亡くなる20年程前迄は3人でたまに新宿、高田馬場、池袋等で飲み食いをしました。それは私の今迄の人生で一番楽しい一時でした。その他この3人で海に行った時の事です。ある夏の日に東京駅を21時(夜9時)に出発した快速・伊豆急下田行きの列車に乗って午前0時30分に終点に着きました。そしてそのまま朝5時迄車中泊をしました。そして5時過ぎに近くの食堂で飯を食い(結果的には食い逃げ)、上りや下りのある坂道で約7キロを2時間も掛けて歩き(歩いた訳はバスの出発時間迄2時間以上もあったから)白浜海岸に着いて海水浴を楽しみました。波は荒いけど綺麗な海水でした。勿論帰りはバスで伊豆急下田駅へ。小田原で小田急・ロマンスカーに乗り換えて新宿着という具合でした。処でその食い逃げの件ですが、じゃんけんに負けた私が金を払うつもりで、私以外の2人は外で私を待っていました。しかしレジの前でいくら待っていても係員が出て来ないので、そのままその店を出てしまったのです。その時店の人から何か言われたら私は田中にこう言うつもりでした。《あれ、お前が払うんじゃなかたっけ?》と。でもそれは杞憂に終わりました。今はその店の人に《ごめんなさい》と言う気持ちです。しかしそれも今となっては懐かしい思い出です。
 田所と違って田中の性格は調子者で軽薄という感じがしました。無口で非社交的よりはいいのでしょうが・・・。高校を出てからは持ち前の性格を生かして営業関係の仕事をして成功した様です。元々裕福な家庭であり、更に仕事で財を成し50を過ぎてから楽隠居生活を楽しんでおり現在に至っております。

《陳勢興》
 彼は台湾の出身で割りと明るいと言うか調子のいい性格で、高3になって大学受験の為よく世界史の教科書を読んでいました。でもお受験は失敗の巻きでした。その後親の莫大な遺産を受け継ぎ事業をやりましたが失敗しバブル崩壊と共に消えました。その後歩合制の営業マンをやっています。彼の母親は我々が高1の時に病の為に亡くなりましたが、クラス全員がその命を救おうと輸血の為に血液検査をして応援したのですがその甲斐も無く非常に残念な結果になってしまいました。でも星野は陳に《俺の血を返せ》と言って残酷な言葉を吐いていたので吃驚しました。それに対し陳は笑って誤魔化していましたが、その心中を察すると私は複雑な心境になりました。
 高校卒業以来のクラス会はいつも陳が幹事としてやっていました。最初のクラス会は卒業から1年2ヵ月後でした。それは1968年5月で代々木駅前にあった《おしろ》でやりました。私が19歳(大学2年)の時でした。俺は酔ってビール瓶を外に投げ捨てた様な記憶があります。その後クラス会は陳の主導で不定期でしたが何回かありかなり好評でした。要するに彼がクラス会開催に関しては主導的な役割を演じて来たのです。逆に彼以外には考えられませんでした。そうゆう意味では彼に感謝しております。しかし陳も一時的に行方不明になって連絡が途絶えてしまいました。その間は津賀根が毎年クラス会の計画・企画をして磯貝先生を中心に数名でクラス会を開催して来ました。しかし津賀根が陳の居所を調査した結果突き止め、現在は正常な状態になりました。陳は日本に帰化し日本国籍を取得しました。苗字は《森田》との事です。

《津賀根正雄》
 ある大学を出てある会社に就職しました。田所は津賀根をこう評価していました。《最初は大人しい奴だと思った、しかし付き合ってみると明るくて、面白くていい奴だ》と。《しかし調子がいいのが玉に瑕だ》とも。《でも調子が悪いよりは、いい方がいいに決まっているし、第一他人に迷惑を掛けているんじゃ無いからいいんじゃないの?》。本当に調子がいいと言うのは口先だけで実行しない事ですが、彼の場合はそうじゃ無いから許せます。陳の居場所が分からなかった時は津賀根がクラス会の幹事をやりました。指導力はともかく、計画・企画力は抜群であり、所在不明者を探し出す能力はプロ並みの才覚があります。津賀根が無遅刻・無欠席を通した訳は成績の悪い落第候補生だったから、それに対処する彼の唯一のPRポイントだったからです。もっとも欠席も遅刻もする理由も必要も無かったからです。第一そうゆう事は性格的にも嫌いだったからです。彼は高3の時に自分の出席簿を改ざんしていた処それを見ていた梅原からこう言われました。
 梅原 《そんな事をしてもいいのか?》
 津賀根《いいんだよ》
 梅原 《そんなもんか》
 津賀根《そんなもんだよ》
 梅原 《ふーん、そうか》

《土屋員章》
 身長180cm、体重80キロというこのクラス一の巨漢で喧嘩の強さは№1でした。更に誰かと議論をしても相手の欠点を衝いて打ち負かし、頭の良さも№1でした。土屋が議論する時の論法(話法)は田所のコーナーにあります。しかしこの土屋もクラス内の成績はいつも後ろから数えた方が早かったのですが、折角合格した中央大学法学部を蹴って暴力団に入いり、刑事事件を起こし豚箱(刑務所)にぶち込まれました。この記事は新聞記事にもなりました。彼は自分なりの価値観を持って行動したのでしょうが、他人に迷惑を掛ける行為はとても残念に思います。彼は超高級住宅街である成城学園に住むお坊ちゃまだったのですが・・・。高校時代に特に親しく付き合っていた男は田所誠一郎であり、二人は何時も一緒でした。この二人は喧嘩の強さでもこのクラス№1のパワーがありました。

《坪川直博》
 彼は2年の時からの転校生ですが目立たない性格の為印象度はイマイチです。

《中島信明》
 なかなか調子のいい男でした。逆に言えばメリットは明るく社交的という事ですが今でもその性格は変わりません。そして卒業後何十年経過してもクラス会に参加する等付き合いのいく面もあります。高1の1学期中間試験の数学で代数は10段階評価の最高10でしたが幾何は最低の0でした。しかし他の科目は軒並み良く35人中7番の優等生でした。年齢は我々より一年上です。
《原政幸》
 成績の数字は良かったのですが欠席が多い生徒でした。

《東浦幸雄》
 とにかく欠席の多さでは断トツの第1位でした。そうゆう意味ではよく卒業出来たと思います。その為彼だけは卒業写真も別枠になっています。彼は女と一発やる事をよくこう言っていました。《俺はハマ子さんと一発やるんだ》と。楽しく嬉しそうに笑ってそう語っておりました。それだけなのですからユニークな存在の生徒でした。いや頭がおかしかったのかも知れません。

《藤原博》
 創価学会の熱狂的な信者で、私は卒業後に入信を勧められました。返事は濁していたのですが公明党の板橋区議から執拗に勧誘され、危うく引きずり込まれる処でした。しかし断ってキリスト教の洗礼を受けました。でも今は何も信じていません。所詮宗教なんて《金》を毟り取られるだけなのですから。逆に何の後腐れも無くて《金》をくれる宗教があるのなら心底から信じます。そんなのがある訳ありませんが・・・。でもキリスト教とイスラム教にはちょっと興味・関心があります。その証拠に私の第一志望の高校はクリスチャン系でした。藤原にクラス会の案内状を送ったのですが出欠葉書は返送される事無く、結局無断欠席されてしまいました。選挙の前になると俺の家に来たり電話を掛けてよこす等かなり積極的なのですが、そのちぐはぐな行動はとても残念です。

《星野明弘》
 私が高校入学後初めて声を掛けたのがこの男で、2年の途中迄はいつもこの男と一緒でした。この生徒の得意科目は生物であり、学力№1の川本に対しこう言っていました。《生物は誰にも負けないぞ》と。それに対し川本は笑って受け流していました。高1の時でしたが彼は私にSEXのHOW TOを説明していました。彼はよく陳に《ドタマかち割ってストローでちゅうちゅう吸ってやるぞ!》とか《バカめ!》とか言っていました。その他私は高1の時に彼と1回ですが千駄ヶ谷のプールに行った事がありました。

《三科秀海》
 ある大学に入学し暫く休んでいて登校したら様子が変なので教務課に聞いたら学費未納の為に除籍処分になっていたとの事。しかし彼はベンチャー企業家として大成し今は悠々自適な人生を楽しんでいます。50を過ぎてから何回かクラス会をやり何時も2次会は彼の家でやりました。気さくでとてもいい奴の様ですが調子のいい面もありますので要注意です。瑤子先生が亡くなってから、その教会へ通っていますが何を考えているのでしょうか?

《武藤吉郎》
 一流大学を卒業後一流銀行に30年近く勤務しました。その後脱サラしてベンチャー企業を起こし今ではハッピーでリッチな人生を楽しんでいます。勿論海外(ロンドン、ニューヨーク)にはブロンドの現地妻が居ます。当時その校舎内では自販機でジュースを一杯30円で売っていましたが、彼は先生の目を盗んではその自販機を揺すって唯飲みをしていました。
 高校時代の教室内で私と彼がすれ違った時の会話です。
武藤《オス》
私 《オス》
武藤《オスと言われたらメスと、メスと言われたらキスと、キスと言われたらダンスと言うんだ》
私 笑《その後は何と言うんだ?》
武藤 笑《自分で考えろ》
私 笑《じゃあSEXか?》
武藤 笑《はっはっはっはっはっ!》
私 笑《それでお終いか?》
武藤 笑《はっはっはっはっはっ!》
私 笑《笑っているだけで何故まともな返事が出来ないんだ?》
武藤 笑《俺の負けだよ》
私 笑《じゃあ俺の逆転勝ちだな》
武藤 笑《・・・・・》 

《森俊樹》
 学校の授業を抜け出して女と一発やった好き者です。しかし女をハラませた為に四苦八苦していた様です。クラスメートに金を借りまくっていた様ですが私の処には来ないのでほっとしました。性格的にはクラスで一番の調子者でした。

《安川一郎》
 高校時代の風貌そのままの状態で現在に至っています。そうゆう意味では一見の価値があります。昔から老けた感じでしたがそれがそのまま現在に至っているっていう感じです。この第六章の最後に2005年のクラス会の写真があります。そして第十二章に1967年の卒業写真がありますので是非見比べてご覧下さい。彼が在学中一番仲良くしていた相手は山近斉であり2006年のクラス会では《山近は今何をしているのかなー、会いたいなー》と言っていたのが印象的でした。

《山近斉》
 我々のクラスではマジに弓道部で通した男です。出席番号順の座席だったので直ぐ前の安川とは仲の良い友達同士でした。山近は地味な性格ですが調子のいい面もありました。例えばこうです。私が高2の2学期で成績表を瑤子先生が各自に手渡す時に《○○君の英語の成績はクラスで一番》と言った処、山近は私にこう言ったのです。《ウオーッ!スッゲー!》と。そうゆう意味では彼も調子者でした。

 34名のクラスでしたが仲の良かったペア・カップルは次の通りです。
石毛・四宮、森・関茂、安川・山近であり、最強のカップルは何と言っても田所・土屋でした。しかしその史上最大のコンビも金銭の問題が絡んで破談になりました。

 次の人達は大変残念ながら一緒に卒業出来なかった1年、2年次の同級生達です。フルネームが判明しない人の名前は苗字のみを掲載しました。卒業生名簿に拠る氏名は完全に把握しておりますが、1、2年次のみの名簿は無い為フルネームの掲載が出来ませんでした。

《川島》
 詳しい内容は判明しませんが1年の途中で刑事事件を起こし退学処分になりました。

《長谷部》
 2年の夏休みでは私と田中と長谷部の3人で逗子へ海水浴に行きました。そして長谷部は女をナンパしていました。しかし2年途中から転校して去って行きました。

《柳沼》
 全科目の大半が赤点の為にクラス内の成績は完全に単独最下位でした。及落判定会議では完全に落第(留年)と決定したのですが、瑤子先生は身を呈して徹底的に柳沼を庇ったそうです。当時の蒔田校長も瑤子先生の意見を容れて尊重したのですが・・・。担任だから当然かも知れませんが男中心の世界の中で頑張ってくれた事に感謝しております。そうゆう教師に恵まれて俺はラッキーでした。私も2年や3年に上がる時は赤点があった為に先生によって救われたと今でも思っております。従って瑤子先生が居なければ私も今どうなっていたか分かりません。本論に戻りますが、柳沼は八百屋の息子で気の弱い善良でお人よしという感じの生徒でしたが、2年に進級する事無くこの学校を去って行きました。この柳沼の1年1学期の成績は37人中37番、私は35番。この時点では殆ど同じ成績なのに何が明暗を分けたのでしょうか?学校側が一方的に判断し、決定した弱者切捨てだったとしたらとても残念です。卒業迄面倒を看るのが学校サイドの義務と責任だと思います。しかしその考えは間違っているのでしょうか?彼は今どこで何をしているのでしょうか?却ってラッキーな人生を歩んでいればいいのですが・・・。
 私が書いた柳沼に関する記述(日記)があります。時は1964年11月18日(水)です。

高田高校友人

《吉田明・蓬田省》
 入学は私と一緒でしたがこの二人は揃って2年を2回やって1年遅れで卒業しました。
 
 次の内容の文書は私より一年後の昭和43年3月に卒業したある生徒達(2名)のメールによる高田高校に関する思い出話しです。この情報を寄せて戴いた方々には心から感謝しております。ありがとうございました。 高田高校友人

高田高校友人

高田高校友人

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