色々と思い出して勝手に書き殴ってしまった結果①〜⑯が《あいうえお》順になっていません。初めからそれを意識していなかった為です。そうゆう意味では順番がバラバラですが、一つ一つの項目はそれぞれ短文ですが事実を忠実に再現しました。
① 学級委員 ②アルバイト ③校章 ④クラブ活動 ⑤求人広告 ⑥アルコール ⑦就職試験
⑧テレビ番組 ⑨山手線 ⑩高田高校の茶封筒 ⑪住宅地図 ⑫切符 ⑬サボ(列車行先表示板)
⑭九州ファン ⑮高田高校のルーツ ⑯オープニング曲〜エンディング曲
①学級委員
私は高2と高3の2年間星野と共にイヤイヤながらの学級委員をやらされました。常識的に考えれば学級委員と言えば成績がトップクラスであるのが当然ですが、私はそうゆう意味では面白い逆転現象でした。今だから《面白い》なんて言うけど当時は恥ずかしかったのです。成績が上位になったのは高3の2学期と卒業の時だけでした。しかしクラス委員と言っても特に何かをした訳でも無く唯単に名目上の存在でした。私がこれをやらされるのに至った経緯は瑤子先生が私の事をこう言っていたからです。《授業態度が真面目で無遅刻・無欠席で模範的な生徒》と。皆嫌な事を私に押し付けて来たといった感じでした。でも本当にイヤだった事は間違いありません。結果的には田中や田所にやらせた方が面白かったのでしょうがもう既に後の祭りです。
②アルバイト
高2の時にたった3日間だけでしたが友達の石毛や田中と3人で高田馬場の小学校で子供達の野球審判をやりました。私に与えられたポジションは3塁の塁審でした。一番ラッキーだと思いました。何故ならジャッジをする事が一番少ないポジションだからです。しかしサードベース上のクロスプレイがあって咄嗟に判断するのを迷っていると年配の本塁塁審がジャッジしてくれて助かりました。でも私の立場は無くなってしまいました。3日間で2、100円でしたが当時の私には大きな収入でした。外で仕事をして稼いだと言う意味では大変貴重な初体験でした。最後にアルバイト代を受け取った時に若い婦警さんが笑顔で《暑い中ご苦労様》と言ってくれましたが、それがとても爽やかで印象的でした。高校時代唯一のアルバイトで1965年の良く晴れたとても暑い夏の日の出来事でした。これはそのアルバイト代が入っていた封筒です。


③校章

校章は今でも大切にして持っております。都立日比谷高校のそれと非常に良く似ており高1の時にある生徒がこう言っていました。《日比谷高校の生徒として自慢して外を歩けるぞ》と。確かに《高田》の文字が無ければ全く同一でした。それはともかくこの校章は私の宝物として一生大事に保存するつもりです。
④クラブ活動
この高田高校のクラブ活動は体育の正課にもあった弓道部だけで、私は必然的に弓道部に入部しました。入部した当時の部長は1学年上の2年でカッコ付けて威張っていた阿部でした。平部員で2年の長束(卒業後は慶大文学部に進学)という男は超調子者で有名でした。私のクラスでも調子者は居ましたが長束に勝てる奴は誰も居ませんでした。私は1年の時でしたが弓道の練習をしている時、同級生の中島が私に《○○、女が通ったぞ》と言ったのでその方を見たら長束がムキになって私を叱りつけていました。でも私は全然怖くありませんでした。だってこいつも笑い出す様な気がしていたからです。一番きつかった事は1年の時に先輩達から長時間正座をさせられた事です。その時部長や上級生達が我々1年に対して《お前らなー・・・》と偉そうに言っていました。そう言えば長束は私が高田の入試を受けている時に生意気に試験監督の助手をしていました。
高1の11月に私は自宅の風呂場で一酸化炭素中毒に倒れ気が付いたら右腕の肘を5針も縫う怪我をしていました。麻酔が殆ど効かず凄く痛い思いをしました。その時の傷痕は今でもあり生涯消える事はありません。しかしこの怪我をせずに風呂場で倒れていたら命を失っていた可能性があり、怪我で済んで超ラッキーだったのです。それにしても弓道初段の試験直前だっただけにがっかりしました。これで初段取得が大幅に遠退きました。弓道部には新入学時に入部し暫らく在籍していたのですが退部し秋に再入部したのですが、その直後の事故でした。しかし2年の初め迄続けていたのですが同学年で相性の合わない人の方が多く結局いつの間にか辞めてしまいました。高2の時に1年と一緒に弓道の練習をしていたのですが、私の矢がとんでもないない方向に飛んでいって恥ずかしい思いをした事がありました。下級生である1年の手前私の立場が無くなるし本当にいやになってしまいました。
母と一緒に高田高校の願書を取りに行くか、提出する時に校舎の脇を通りましたが弓道を練習していた生徒達に見られてちょっと恥ずかしかった事が記憶にあります。
私が新入生当時(1964年4月)の弓道部の人員(19名)は次の通りでした(敬称略)。
1年(11名) 2年(6名) 3年(2名)
安 引 阿 部 斉 藤
小木曽 大 塚 谷 口
陳 小 屋
中 島 田 村
西 沢 長 束
星 野 藤 野
堀 内
八 木
柳 川
山 近
若 林
⑤求人広告
2年の時でしたが成績が悪く進級も難しいと勝手に思い込んで学校が嫌になり、働いて金を得たいと考えた事がありました。その時新聞の求人広告で鮨屋が店員見習いを募集していたので電話しました。その時歳を聞かれたのでこう答えました。《16》と。そうしたら向こうは《家もそうゆう若い人が欲しいんだ》と言っていましたが、この話はそのままにしてしまいました。私には現状を打破する勇気が無かったのでしょう。

⑥アルコール
普段アルコールを飲む事は全くありませんでした。高1の夏休みに当時横須賀市久里浜に住んでいた叔父の家で日本酒をコップ3杯飲んだ事がありました。しかし体質に合ないのか戻してしまいました。しかし叔父は《それでいいのよ》と言って評価してくれた事が記憶にあります。
⑦就職試験
私は高校時代に就職試験を2回受けました。1回目は第六章の鈴木信行のコーナーにその記載があります。2回目は1967年2月10日(金)で大雪(気象庁の記録によると、この雪は2月10日の午前6時過ぎから降り始め翌日の未明迄続いたそうです)の降る中での東京・日本橋にある赤木屋証券であり、新聞の求人広告による応募でした。その会社の面接官は身を乗り出して熱心に色々と私に質問をしていました。その内容は殆ど忘れてしまいましたが、一点だけ記憶が残っている部分があります。それは今では常識的には考えられないタブーであり、ルール違反の質問ですが当時は当たり前でした。その中身は《支持政党はどこか?》であり、私はそれに対し《社会党》と答えました。当然《何故?》と聞かれてので《非武装・中立》だと返答しました。資本主義経済社会の中で生存し繁栄している証券会社の面接試験に、その答えは余りにも世間知らずで適切性を欠く内容でした。何故なら社会党は資本主義を否定する左翼政党だったからです。当時のその手の質問に対する模範回答は《民社党》でした。その理由は保守主義の中に於ける改革による政策に好感があったのでしょう。尚この会社からは後日不採用通知が届きました。しかし現実的ではありませんが今でも非武装・中立主義の思想は最高の理想であると理解し認識しております。
高校時代に2回も就職試験を受けた理由は、大学に行くよりも社会に出て働く事に魅力を感じていたからです。テレビ・ドラマで《チコといっしょに》の番組で《就職試験》というタイトルの放映があり、その内容に刺激され影響を受けたのかも知れません。

1966年9月30日(金)に於ける銀座アスターの就職試験内容(日記)のコピーです。

1967年2月10日(金)に於ける赤木屋証券の就職試験内容(日記)のコピーです。

⑧テレビ番組
私が特に興味や関心を持って見ていたテレビ番組は次の3点でした。
《こんにちはマージー》
1964年 シンシア・ペッパー主演(声:北川麻理)
1920年代のアメリカで、銀行員の真面目な父と物分りの良い母、いたずら盛りの弟を家族に持つマージーが青春を謳歌するコメディでした。
主題歌(歌詞)
私マージー おてんば娘マージー いつになれば一人前かと
家中で心配するけどマージー 恋の味なら知っています
17歳はもう大人でしょ 私マージーです
《チコといっしょに》
本間千代子主演
1965年2月1日〜1965年10月10日 全37回
月曜21時30分〜22時
自分なりの正義感と価値観に基づいて積極的に発言し行動する18歳の女子高校生を演ずるドラマで30分一話完結のストーリーでした。全部で37作でしたが1話(タイトル=就職試験)のみ録音に拠る保存があります。社交性と行動力があって自己主張する素敵な女子高校生という感じでした。
主題歌(歌詞)
みんなにある希望の夜明け みんなにある眠れぬ夜更け
そんな時チコは思う 負けちゃだめ くじけちゃだめ
ほーらチコがいる チコがいる チコといっしょに
《逃亡者》
THE FUGITIVE 1963年〜1966年
デビッド・ジャンセン主演(声:睦五朗)劇中名は医師・リチャード・キンブル
テレビでの冒頭のナレーションは次の通りです。
<彼は逃げる 現在を 今夜を そして明日を生きるために>
妻殺しの脱走犯として警察から追われ、間一髪で辛うじて脱出する一話完結(その場での危機脱出)のストーリーでした。行く先々では現地の人達から親しまれ理解され同情されていましたが、ジェラード警部からの追求が厳しくテレビを観ていてハラハラドキドキの連続でした。今迄の私が観たテレビ番組では最高傑作でした。
《新撰組血風録》
1966年1月2日迄の26話
幕府を守る為に一生懸命命懸けで戦った新撰組でしたが、時代の流れには勝てずに官軍に破れ消え去った集団でした。
では以上の4番組の朝日新聞によるテレビ欄をここに掲載致します。




⑨山手線
このカナリア色をした国電は101系であり高校生当時の私が毎日利用していました。

⑩高田高校の茶封筒
何の変哲も無い茶封筒ですが瑤子先生は私の高校1、2年当時の中間試験の結果をこれと同一の封筒に入れて送って自宅に送ってくれました。現在はこの封筒に記載されている学校も住所もありませんので、そうゆう意味では希少価値があります。


⑪住宅地図
この住宅地図は私が高校生当時の1966年と42年後の2008年の物です。
《高田かいわい》の地図は最後の卒業生が描いた作品です。


⑫切符
私は特に切符を収集する趣味はありませんが、何かの記念や記録に残るかも知れないとこれらの切符を持っていました。保存状態も良くなく、それこそ他人から見たら単なる塵その物です。しかし私にとっては高校時代を振り返る確かな証となるとても貴重な資料です。しかし新宿から10円で高田馬場へ、東京から久里浜へ200円で行けた時代もあったのです。
この12枚の切符の内容は新宿発が多いのですが不正乗車でも無ければ、キセルでもありません。私の通学定期は国鉄(現JR)の高田馬場〜池袋でしたが、新宿からは高田馬場迄は10円(在学中に値上げがあり20円になりました)で行けた時代でした。新宿から乗車した場合途中の高田馬場で下車しないでそのまま池袋に行った為に切符はそのまま手元に残り、結果としてそのまま現在に至ったという訳です。
では私の手元にある切符のほんの一部を紹介致します。尚切符の年(昭和)月日は日付順に並べそれぞれに付いて説明致します。
40年4月6日(久里浜から東京電環)200円
母、妹と共に久里浜の祖母、叔父の家に挨拶に行った時のものです。
40年7月日付不明(新宿から)10円
何らかの用事で新宿へ行ったのでしょうが理由は不明です。
40年8月15日(逗子から東京電環)160円
田中、長谷部と共に3人で逗子海岸へ海水浴に行きました。この現場で長谷部はナンパをしました。
41年2月14日(新宿から)10円
田所と新宿のサテンへ行った時の物です。
41年6月27日(新宿から)20円
田所と新宿のサテンに行った証です。
41年8月4日(久里浜から東京電環)270円
久里浜の叔父の家には夏になるとよく行ったものです。何故なら私は海が好きでそこを基点に三浦海岸へ行く事がよくありました。その家のある久里浜から三浦海岸へは京浜急行を利用し、その家から海岸迄約30分の所要時間でした。海の家を利用しては金が掛かるのでズボンの下に水着を穿いて行きました。ですからその帰りはちょっと濡れ濡れ状態でしたが・・・。この叔父の家は大学時代もよく行きました。
41年9月20日(不動前から国鉄線へ)40円
就職試験(銀座アスター)を受ける為の下見に行ったのです。その試験日は9月30日でしたが、その当日の切符は残念ながらありません。尚この試験については第六章の鈴木信行のコーナーにその記載があります。
42年2月10日(新宿から)20円
就職試験(赤木屋証券)を受けての帰りに新宿へ立ち寄ったのです。尚この試験内容と結果は第十四章の⑦にその記載があります。
42年3月8日(新宿から)20円
私と田所が新宿に行って、彼がナンパをした日です。その内容については第六章の田所のコーナーにその記述があります。
42年3月13日(信濃町から)20円
この日は卒業式の翌日で信濃町に行きました。その理由はヴィクトリアと言う洋菓子点がアルバイトを募集していたので応募の為です。しかし場所が分からなかったので簡単に諦めてしまいました。
42年8月20日(成増から)50円
この日付は私が高校を出てから5ヵ月後ですから大学1年の時でした。藤原に東上線の成増へ連れていかれ、創価学会への入信を強要されたのです。その内容は第六章(藤原博のコーナー)にその記述があります。
ここに掲載した切符は現在持っているほんの一部にしか過ぎませんが代表的な物だけを厳選しました。しかし現在はスイカやパスモの普及で実際に使用した切符を手元に残す事は非常に難しくなりました。それでもどうしても欲しければ下車する際に駅係員に申し出をすればいいのですが中々そのチャンスに恵まれません。
直近の切符も掲載しました。サイズは殆ど同じでも記載内容や性能等が大幅に変化しております。




⑬サボ(列車行先表示板)
これは当時(1966年3月)実際に使用していた物を上手く入手して写真撮影をしました。両面あって《熊本》と《西鹿児島》になっております。尚現在は《西鹿児島》
という駅名は無く《鹿児島中央》となっておりますので、そうゆう意味ではこのサボは大いに希少価値があります。ですから私の高校時代とは直接関係無い昭和47年4月3
日付ですが、その日西鹿児島駅で購入した切符も敢えてここに掲載しました。

⑭九州ファン
私が九州ファンになった理由は次の2点ですがそれは高校時代にその原点があります。高校2年から九州(福岡県)に住む女の子と文通していた事。高校2年の修学旅行では生まれて初めて本州以外の島に上陸し、その旅行が楽しかった事。本当は修学旅行では南九州に行きたかったのですが、日程的に無理なのでその夢は実現しませんでした。ですから北九州に落ち着いたのです。しかし私はそれ以来九州ファンになってしまい、20代の頃はよく南九州(宮崎、鹿児島、与論島等)には行きました。そして将来もう一度是非行ってみたい所は、冥途の土産に高校生の私に衝撃的な印象を与えた長崎原爆記念館です。
⑮高田高校のルーツ
昭和39年度高田高校入学案内パンフレットに《学校法人弥久茂学園が経営》と載っていましたのでそれをインターネットで検索した処、高田高校に関する記述がありました。それは次の通りです(原文のまま)。
昭和8年に設立された順天商業学校は後に財団法人化される順天中学とは別の財団法人として組織された。戦時中は、国家の要望によって順天工業学校を併設し、戦後は、学制改革により新制順天商業高等学校となり、昭和26年には財団法人から学校法人に組織変更した。順天商業学校は、設立以来空襲による校舎消失後も順天中学と運命をともにしてきたが、昭和28年高田外語学校に継承され、弥久茂高等学校、高田高等学校と校名変更され、昭和40年代半ばには生徒数の減少により、休校状態となり、以後、現在でも休眠校となっている。
⑯オープニング曲〜エンディング曲
オープニング曲とエンディング曲はどちらも同じ《ホイッティングトン寺院の鐘》です。この音楽は学校内の授業の始まりと終わりを合図するチャイム音に似た曲です。従って今回この母校を語るに当たって最初と最後に流す事が最適であると考え実行しました。
次にそれぞれの主な曲を挿入順にその理由を説明致します。
《校歌》
本校卒業生であれば誰でもよく知っている懐かしい音楽です。こうゆう形で表現しなければ完全に死に絶えてしまう為に、ここで完全復活致しました。
《ワシントン広場の夜は更けて》(第一章)
中学3年の卒業迄あと数日という時にあるクラスメートが皆に聴かせたいと言って黒板の前で歌っていたのが印象に残っていたので、この部分に採用しました。この時俺は第二志望校である高田高校に合格した直後だったので、中学時代でも一番いい時期でした。そうゆう意味でも思い出のある音楽です。
《歌をおしえて》《僕の恋》(第一章)
中学3年の朝にラジオから流れていた音楽です。この二曲はいい音楽だと思って録音したのです。
《パティ・デューク・ショー》は中学3年当時のテレビ番組です。
《仰げば尊し》(第七章)
お世話になった先生方を思う気持ちを表現する音楽としては実にタイムリーなメロディーだと考えます。
《悲惨な戦争》(第十章)
彼女から初めて手紙をもらった嬉しさ、そしてその日から楽しい思いを続けて来たのですが、非常に残念な結末を迎える虚しい日迄を表現するには実に適切な音楽です。
《蛍の光》(第十二章)
私の年代での卒業式の定番音楽はこの曲を抜きにしては考えられない程、絶対に必要な音楽です。
次の3番組は《逃亡者》と共に高校時代に夢中になって観ていたテレビ番組でした。その懐かしさを込めてここに取り入れました。
こんにちはマージー(第十五章) 1964年
チコといっしょに (第十五章) 1965年
新撰組血風録 (第十二章・十五章)1965年
私の高校時代3年間にも様々なヒット曲がありました。その中で私好みのベスト10は次の通りです。尚他に主題歌、CMソングも付記しました。
ヒット曲ベスト10(アイウエオ順)
① 愛する君と ②おかしな僕 ③恋のパームスプリングス
④この胸のトキメキを ⑤タイニーバブルス ⑥メイム ⑦夢の王子さま
⑧レッツ・メイク・ア・メモリー ⑨ローマの雨 ⑩若いってすばらしい
主題歌、CMソング(放映年代順)
①あなたとならいいわ ②おはなはん ③オリエンタルカレーの唄
④かわいいマギー 世界の恋人 ⑤生命保険 ⑥世界の恋人 ⑦ちょっと咲子さん
⑧ナショナルカーステレオ ⑨日立 ⑩メンメン明治のチョコレート