私は夢に見る程物凄く憧れており、希望の星その物であった第一志望の高校に落ちて完璧な大黒星スタートでした。そして更に連敗した結果3戦全敗となり、その為に1964年2月末時点では私の通っていた中学のそのクラスでは私だけが完全に唯一の負け組み(負け犬)であり、たった一人の敗北者でした。私より成績の悪い生徒でもしっかり合格して我世の春を大喜びで迎えていたのですが・・・。担任の先生はホームルームで《まだどこにも受かっていないのは○○だけですからね》と私の実名を発表(公表)してしまいました。確かに担任の先生の忠告では《君にはその高校は無理だから止めろ》とはっきり言われていました。その理由はこの文章を書いていて発見したのですが、この高校は中学での成績がオール3程度の成績が必要だったのです。私の成績はオール2だったのです。しかし私はその先生の意見を無視して受験を強行したそのクラスでたった一人の生徒でした。何故ならその高校は私が夢に迄見る程心底から憧れていた学校だったからです。そして見事に一次試験を無事に通過した時は夢を実現した世界一幸せな人間でした。本当に合格したら担任の先生に大威張りで報告するつもりでした。しかしその夢が長く続く事は無く、その2日後は世界一そして生涯の悲劇を味わう事になったのでした。その高校の合格発表掲示板に私の受験番号が無かったのです。その為に茫然自失の状態となってしまいました。私の受験番号は26だったのですが、何と合格者番号は25の次が27だったのです。挙句の果てに補欠合格者のコーナーにも私の番号はありませんでした。我人生最悪の激震が走ったのです。その後の私の人生行路を考えた場合、それは決定的な出来事でした。それはともかくとして私にとって一時的な天国と本当の地獄を一変に味わった15の春でした。成績が悪い(9科目平均でオール2程度)癖に担任教師の意見に逆らった唯一の生徒だから天が私に罰を与えたのでしょうか?しかし時間の経過と共に気分的にも精神的にも心理的にも回復して元気になって来ました。何故なら何とかなるだろうと思っていたからです。しかし実際は3戦全敗で本当は絶体絶命のピンチだったのです。その後2校連続で合格したのですが余り行きたくない高校でした。何故なら馬鹿っぽい、嫌なムードの漂う豚箱(刑務所)みたいな学校だったからです。3連敗後の最初の合格校ではそこの生徒が私の帰りの交通費をネコババしたんですから何をか言わんやです。2番目の合格校はクラスの皆が馬鹿にしていた《おバカな学校》だからそこもキャンセルしました。最も私がそこに行っていれば優等生になっていた可能性がありました。それはともかくとして要するに第一志望校(不合格)と第二志望校(合格)以外の4校は2勝2敗でしたが私にとってその4校は合格・不合格に係らず糞豚箱みたいな地獄の学校というイメージでした。ですから2連勝し2勝3敗となったのですが全然嬉しく無くかったるい思いをしていました。要するに《何となくやだなー》と感じていました。つまりこんな学校へ行くのは嫌だったのです。ですから本当に嬉しかったのは最後に受けて、最後に合格した第二志望のこの高田高校でした。その合格発表掲示板に私の名前(漢字のフルネームで縦書き)があった嬉しさは今でも覚えております。中学最後のホームルームで担任の先生は私の事をこう言っていました。《○○は最初3連敗したけど、その後3連勝し後になってエンジンが掛かって来た》と。これで何とか私の名誉は回復しました。この中学では6校も受けた生徒は前代未聞との事でした。しかし6校も受けたのでそれなりに色々な思い出が出来ました。夢の第一志望校に落ちて地獄を味わった事、最初の合格校では帰りの交通費をそこの生徒にネコババされましたが最寄の交番で《帰りの交通費が無いので貸してもらいたい》と訳を話した処金を貸してもらいました。私にその金を貸してくれた警察官には感謝しております(翌日返金に行きましたがその警官が居なかったのでちょっとがっかりしました)。2番目の合格校では面接官が楽しい人で完全にリラックスムードに包まれました。その具体的なやりとりは次の通りです。
面接官《何故その学校が駄目だったの?》
私 《僕としては良く出来ました。しかしそれ以上に出来る人が居たのでしょう》
と答えた処その面接官は笑い出してしまいました。
まだあります。それは結果的には第一志望校は駄目でしたが私を落とした担当者の方に感謝しております。何故ならそれは結果的に私が進学した第二志望校で素晴らしい宝物を得たからです。最後に受けて最後に合格した第二志望であった高田高校合格の瞬間は《やった!》と言う嬉しさでいっぱいでした。合格発表掲示板に私のフルネームがあったのです。この嬉しさは第一志望校の一次試験にパスした時程ではありませんが、私の生涯に渡っての最大の喜びと言っても過言ではありません。後程詳細に述べますが私にとっての高田高校時代は素敵な先生方や素晴らしい友人達に恵まれた人生最高の晴れ舞台でした。既に遥か遠くに過ぎ去った歴史上の母校ですが私に幸運をもたらした運命の女神そのものでした。私の15の春にその運命の女神が微笑みそれが私のその後の人生を幸運に導いたと言っても過言ではありません。ですから素晴らしい人間達との出会いの場を与えてくれた高田高校には心から感謝しております。
1964年3月2日の高田高校の入試は英語、国語、数学の3科目でした。面接の時に面接官(入学後に分かった事ですが国語担当の山口先生)から《数学は15点だったけど、国語が良く出来ている、英語はどうですか?》と質問され《得意ではありませんが興味があり大いに勉強したいと思っております》と積極的・前向きの姿勢で(本当は調子良く)答え結果的に合格しました。面接の時は黙っていましたが、国語が良く出来た理由は分かっていました。それは中学3年の時に使用した国語の教科書の文章とそっくり同じ文章が出たからです。しかもその文章の中身は私が特に興味や関心を持って何回も読み直しをして完全に頭の中に入っていました。その為に問題をよく読まずに手が震える位興奮して解答用紙に答えを書き込んでいました。ですから超ラッキーと言う他ありません。何故なら私の中学時代3年間の国語の成績は並以下の2の常連だったのですから。高校時代の国語の成績も10段階評価の5だったのですから決して良い方ではありませんでした。
余談ですがその高田高校の入試に出た国語の文章は私の中学3年の国語の教科書の文面その物でした。今はそれをすっかり忘れてしまいましたので、その文章がどんな内容だったのか知りたくて国立教育政策研究所の教育図書館を訪れてその教科書(出版社は学校図書で昭和38年度使用の中学3年用)を手にしたのですが、何しろ半世紀近くも前の文章であり、《これだ!》と思える様な決定的な確信には至りませんでした。それが判明すればここにコピーして載せたかったのですが、その思いは叶いませんでした。今は当時の私の心を惹きつけて魅了したその文面に感謝しております。それはともかくとしてもその教科書との出会いがあったから、その後の私の人生があった様な気がしてなりません。
それにしても高校入試は3連敗後3連勝しましたが最後に合格したこの高田高校は第二志望だっただけにとても嬉しく、自宅の最寄り駅から家迄1キロもありますが一刻も早く親に知らせたくて飛んで帰りました。私の夢が実現したとても嬉しい思い出は生涯忘れる事はありません。第一志望校はとても残念な結果でしたが、その後の人生を考えると《災い転じて福となす》を地で行った生涯で一番ラッキーな出来事と言っても過言ではありません。私は小学校、中学校、高校、大学と4校に入学・卒業しましたが、第二志望とは言え自分の意志で好きな学校に行けたのはこの高校だけでした。ですからその中身も結果も大いに意義や価値がありました。そして今それをしみじみと実感しております。
私の兄弟姉妹は妹が一人居るだけですが中学時代の私の成績は平均でオール2程度だったのに対し、妹はオール5に近いトップグループでありエリート中のエリートであり学校としても校長先生からも大変期待をされていました。しかしその妹も第一志望である超一流の都立高校に不合格となり仕方無く他の高校(中大杉並)へ行きました。我々兄妹共に第一志望校合格の夢を果たせなかったのは血統か?血筋か?呪われているのか?それともただ単に不運だったのか?正確な事は不明です。唯一はっきりしている事は自分の実力をわきまえずに自己主張した結果、大変痛い思いをしてその償いをしなければならなかった点です。しかし中学時代の成績通りの暮らし向きが我々二人にあります。つまり彼女は現在上流階級の奥様としてとても幸せに暮らしている点です。一方私は下層階級の貧乏労働者という立場です。しかしお互いに健康には恵まれ元気に生活をしております。
私の中学3年の受験直前期に朝のラジオから流れていた音楽は次の2曲です。尚これは様々なカラオケ店で探したのですが取り扱いがありませんでした。そうゆう意味では希少価値のある曲かも知れません。
《歌をおしえて》《僕の恋》
同時期の夜のテレビヒット番組の音楽=《パティ・デューク・ショー》
他に中学3年の卒業直前にある同級生が黒板の前でどうしても歌いたいと言って熱唱した曲は《ワシントン広場の夜は更けて》でした。