さてこの高田高校は東京・高田馬場駅前に1956年度〜1968年度迄僅か13年間存在していただけでした。今も保存してある1964年度入学生用の高田高校入学案内パンフレットには蒔田校長が《日本一の高校にする自信がある》と言っていたのですが、その夢の約束を果たす事無く私が卒業した2年後の1969年3月卒業生を最後に廃校(法的には休校)となり、今や完全に歴史上の高校になってしまいました。当時の高校は団塊の世代の為1クラス50名以上が当然でしたが、この高田高校は少数教育(私の入学時は37名、卒業時は34名)で特に英語教育に熱心で家庭的ムード満点でした。思春期の悩み等もありましたが今となっては昔の懐かしい夢の様な3年間の高校生活でした。
さて成績の事ですが私が1年から2年に進級する時は数学(幾何)が、2年から3年になる時は古文と物理が赤点の為に仮進級でした。成績の評価方法は
10段階絶対評価で《1》と《2》が赤点でしたが、全科目平均では5.0未満が赤点でした。四捨五入形式で例えば100点満点で15点以上25点未満で《2》、75点以上85点未満で《8》でした。従って《10》を取る為には
100点満点で95点以上取る必要がありました。
時間割は次の通りでした。
1時限目 8:10〜 9:00
2時限目 9:10〜10:00
3時限目 10:10〜11:00
4時限目 11:10〜12:00
5時限目 12:30〜13:20
6時限目 13:30〜14:20
月曜日〜金曜日は6時間の授業でしたが、土曜日は午前中だけでした。ですから土曜日の午後は最高に嬉しいハッピータイムでした。
月曜〜金曜の昼食時間は12:00〜12:30の30分間でした。ホームルームで池上が《1時間にしてはどうか?》と提案しましたが田所が《その分早く帰れるんだからいいじゃねえか》と反論したところ池上は《それもそうだな》とあっさり前言を撤回しました。
私の高校時代の成績で最低は1年の1学期でした。それは37人中35番(ビリから3番)で赤点が3科目もあり有力な落第候補生でした。最高は3年の2学期で34人中3番(ベスト3)でしたが赤点が1科目ありました。赤点から解放されたのは卒業の時だけでした。
私の中学1年や2年の英語の成績は5段階評価の最低の《1》を記録した事があり、その延長みたいに高1の1学期の中間試験の英語の成績は惨憺たるものでした。その試験後に英語の担当で担任でもある女性教師(磯貝瑤子先生=当時30代の美人で東京女子大学を主席卒業)がこう言っていました。《これから名前を呼ぶ人は英語の成績に問題があるので補習を受ける様に》と。10人程指名されてしまいました。当然その中には私の名前も入っていました。実に屈辱的な気分でした。つい1年前の中学3年では英語の成績は5段階評価の《3》だったからです。その中学は世田谷区内ではトップクラスの学力優秀校だったのです。ですから私だってやれば出来るところを見せようと思ってファイトを燃やして勉強した結果期末試験では《英語の落ちこぼれ組》からは脱出しました。その為に夏休み英語補習メンバーからは外されてしまいました。しかし私はその補習授業には積極的・意欲的・自主的に参加しました。その時瑤子先生は私にこう言いました。《○○君は来なくてもいいのに》と。私がそれでも参加した訳は私も基礎・基本から再度勉強したかったから、更に私より出来の悪い連中と一緒なら優越感に浸れるから、そして何より瑤子先生から注目されていたいと思ったからです。要するに瑤子先生を独占したいと思う深層心理があったのでしょう。余談ですが夏休み補習では瑤子先生が我々生徒に毎週アイスクリームをご馳走してくれました。先生、あの時はありがとうございました。出来の悪い我々生徒達に救いの手を差し伸べてくれた瑶子先生のご好意には心から感謝しております。しかし私はその期待に十分に応えられなかった事を心からお詫び致します。ごめんなさい。それは私の能力が無いせいでした。夏休み補習が実行されたのは週1回でした。それは1964年8月の暑い夏の日々でした。
この高校は英語教育重視(本当は英語の科目が多かっただけ)の学校で1年の時はリーダー、文法、副読本2冊、大学受験英語の5科目もありました。私は担任である英語女性教師の瑤子先生が好きだったので頑張って勉強した結果、2年の2学期は英語の成績がクラスで1番になりました。成績表の所見欄には瑤子先生の自筆でこう書いてありました。《三科目欠点はあるがあまり気にせぬこと、それより英語がクラス一番であることを喜ぶべし。尚努力されたし》と。この時が私の学校時代そして人生の黄金時代だったのかも知れません。その成績通知表を渡す時に瑤子先生が《○○君の英語の成績はクラスで1番》と言ったので周囲の者は《すっげー》と言って騒いでいました。その時の英語の具体的な成績は82点、94点、100点が2科目であり合計376点で1科目平均94点でした。その直後に私は調子に乗って予備校で大学入試の英語模試を受けたのですがたった45点でした。高校の教室内では調子のいい点数でも現実の世界での厳しさを感じました。しかし私がこの高校を卒業後に入った大学では、その大学を主席で卒業した《オール優》の超学力優秀男にも英語の点数だけは私の方が勝っていました。英語検定は2級を在学中に3度受け悪戦苦闘の末に3度目にやっと合格しました。私の英語力がピークだったのは大学時代でした。当時池袋の大手デパートの子供服売り場でアルバイトをしていましたが、英語を話す海外からのお客様がいらしたので英語で店内を案内したものです。他に教職課程の一環としていった高校で教育実習として英語を教えた事もありました。しかしその高校の英語のレベルが余りにも低すぎて思わず笑ってしまって、それを見ていた担当の先生が生徒達にこう言っていました。《笑われていますよ》と。しかし私の中学時代や高校入学直後の英語力を考えれば、それ以前に常識を欠く大変失礼な態度だったと心から反省しています。しかしその後大学を卒業してからはサラリーマンになったのですが、英語を使う環境では無く、私自身英語力を進歩・発展させる努力も勉強も全くして来なかったので完全に忘れてしまいました。ですから今では中学1年以前のレベルかと思われます。折角私に英語を教えてくれた先生方には申し訳無いと思っております。しかし筆記体の書き方は今でも手本通りに綺麗に書ける自信があります。そして今でも英語には興味と関心があります。仕事が忙しく中々勉強する時間が無いのですが年金生活になったら再度ABCから挑戦するつもりです。その証拠に未だに中学1年当時に使用した英語の教科書をまだ持っているんですから。それはABCから始まる内容であり、Lesson1がThis is a pen.のとても懐かしい内容なのです。しかし当時はそのスタートに躓いて成績が最低の《1》だったのです。
高校の成績に戻ります。英語以外の科目は軒並み平均以下の点数ばかりが並んでいました。特に数学は全く駄目な科目でした。しかし代数担当の庄司先生は赤点を付けない主義の先生でしたので、数学大嫌いの私にとっては非常に有り難い教師でした。しかも3年間の付き合いがあり高3では担任になりました。卒業時の数学の成績は5段階評価の《3》でした。この科目で《3》を取ったのは小学校4年(算数)の時以来で実に8年ぶりでした。その他古文や物理も苦手な科目で何時も赤点に付き纏われていました。
体育についてはそもそも運動音痴で中学時代の成績は悪かったのですが、高校では人並みの成績でした。弓道の形が良くてその影響があったのかも知れません。
先程触れた教職課程に於ける教育実習の件ですが、中学・高校の教室で落ちこぼれていた私がよく教壇の場に立てたという現実です。これは常識的には考えにくい現象かと思われます。しかしこれは大学で単位取得の為の一環にしか過ぎないのですから大した問題ではありません。余談ですが私は大学卒業前に担当の教授から《先生にならないか?》と誘われましたが急な事なので断ってサラリーマンになりました。
大学入学調査書での私の成績区分はA評価となっています。これは高3の2学期の成績がたまたま34人中3番とトップクラスの数字であった為の現象です。従って本当の実力を反映した正確な評価ではありません。本来はCかDが妥当であったと思われます。
ここに掲載した《高校時代の成績》とは各学年(3年間)成績通知表の他に中間試験結果の一部、及び実際に行なわれた学校内での試験のほんの一部及び大学入学調査書等です。
最初の2枚の表は私が高校1年当時(1964年)の1学期と2学期の中間試験個人別成績一覧表です。これは瑤子先生が作成し、各個人宅へ郵便(保護者名義)で送られて来ました。この切手の消印(昭和39年6月7日、同11月16日)はその時の物です。この成績表は送られて来た本人以外の個々の名前は分からない様になっていました。私の成績は太線で囲ってあります。しかしこうして見ると同じクラスでも個人によっては随分と格差があったものです。成績は誰がトップで、誰がラストなのか鈍感な私にも判っていました。結果的には成績が最優秀だった生徒は卒業後超一流大学へ進学しました。私?勿論、三私文(さんしぶん=三流私立大学文科系)でした。













