東京都新宿区 高田馬場駅前にあった私立高田高校昭和42年3月卒業生の回顧録

〜目次〜

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序章
《前 文》
第一章
《入学前》
第二章
《高校受験案内書》
第三章
《高校時代の成績》
第四章
《英語の教科書》
第五章
《生徒手帳》
第六章
《各生徒》
第七章
《親友・田所誠一郎》
第八章
《各先生》
第九章
《恩師・磯貝瑤子先生》
第十章
《修学旅行》
第十一章
《ガール・フレンド》
第十二章
《当時の昭和史》
第十三章
《全卒業生名簿》
第十四章
《高田高校概略》
第十五章
《雑記》
第十六章
《編集長と著者》
あとがき
《総決算》
参考資料
《当時の記録》
さよーなら!
《別れの音色》

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第十四章《高田高校概略》

 同じ敷地内にある同一の建物内に高田外国語学校という大学受験予備校及び各種学校として外国語を教える為の講座もありました。私は高1なのに中2の講座を受講していました。それは瑤子先生の授業だったからです。しかし高1の教科書の内容より中2のテキストの方が遥かに優しくてしかも先生が最高だったからとても楽しく学ぶ事が出来ました。
 同一の名称の高校は現在新潟県、岩手県、三重県、奈良県、大分県に点在しておりますが、過去の東京に存在した高田高校とは全く関係ありません。

所在地 新宿区諏訪町243
 この地番はその後変更になり現在は新宿区高田馬場1-28となっております。当時の高田高校の生徒達が利用した戸山口(新宿寄り)の改札口風景に関しては有人から自動になった他は特に変化がありません。しかし肝心な高田高校があった場所は区画整理による再開発が行われた結果イメージが全く変わってしまった為に正確な場所の特定は困難です。しかし住所が判明しているのですからそれを基に調査した結果、現状は飲食店を中心にしたスーパー等庶民的な印象のする中級商業地となっております。その詳細な内容は第十四章⑪をご覧下さい。

現在の状況 休校
 私は廃校だと思っていましたが都庁・私学部の責任者は《休校》と言っていたのです。そこで改めて《廃校》か《休校》なのかを質問した処《廃校》という届け出がなされていないので法的には《休校》が正解との事です。そう聴いて少し嬉しい様なホッとした気持ちになりました。従って条件が整えば再興も可能との事です。その場合でも1年や2年の休校ならともかく、こんなに長く何をしていたのか?との質問をクリアーする回答が必要です。他にもっと必要な事は莫大な費用と教師と生徒、そして優秀な経営者です。しかし復活の可能性は皆無でありこの高田高校は《蛍の光》や《仰げば尊し》の音楽に送られて大変残念ながら永久にこの世から消え去ったのです。学校を止めた理由を元副理事長兼副校長であった方(元理事長の娘)に質問した処《生徒が集まらない為》と説明していました。確かに我々団塊の世代以後生徒数が減少に転じた事は間違いありません。しかしそれに対するしっかりとした経営戦略を講じていれば良かったのです。とどのつまりは理事長の気まぐれ放漫経営の単なる15年間だったのでしょう。
授業料 年間2万1千円 
 私の在学した3年間は毎年2万1千円でした。当時の私立高校としては格安であり都立並みの金額でした。入学時に納めた保証金(5千円)は卒業時に返す事になっており当然返してもらい、親には黙ってしっかりゲットしました。高校生当時の私の毎月の小遣いは1,000円でしたのでこの5,000円を受け取った時は《やったー!》という嬉しさでいっぱいでした。当時の高卒初任給が1万8千円で今がその10倍として18万円ですから、今の金額に換算すれば5万円になり高校生としては小躍りしたい魅力的な金額でした。

偏差値 50
 平均偏差値は50程度と思われます。当時は偏差値と言う言葉自体がありませんでした。従ってこの数字は現在の同じレベルの高校と比較検討した結果の推定数字です。

受験者数〜卒業者数
 受験者   1,887名 
 合格者数    533名(競争率3.5倍)
 入学者数    496名(合格者に対する割合93.1%)
 卒業者数    430名(入学者に対する割合86.7%)

設置 1953年(昭和28年)12月21日
開校 1956年(昭和31年) 4月 1日
閉校 1969年(昭和44年) 3月31日

理事長 広瀬英三   副理事長 広瀬みち
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