媒酌人(仲人)の話(1976年10月9日・土)
私の母は現在81歳でございまして私と一緒に今以て生活しておりますが、先日私達子供が集まりまして晩御飯を食べた訳でございます。その時私の母が長い人生を振り返って観て何が一番良かったんだろうかという事を反省してみたと、その時に昔の事が本当に思い出されて来たけれども、千駄ヶ谷という所で私の母は父と一緒に酒屋をやっていた訳ですが、その時に毎年毎月払う家賃が非常に痛かったと、酒屋をやってた時には何とかして早く自分の家を持ちたかったと、そして毎月35円の家賃が非常にきつくて堪らなかった、こーゆー話をしました。やっと杉並の永福町という所に家を持った訳でございます。それでやれやれと思っている中に今度は子供が病気し病院へ通い、そして医療費でごっそり持っていかれ辛かったと、その子供もやっと、まっ一人前になりましてそれぞれが片付きましてやれやれと思ったと、今は決して不幸とは思わんが何が一番良かったと言うと、死んだ私の父と真っ黒けになって千駄ヶ谷の時働いたあの時が一番良かったんではないかと、こうゆう話をして戴きました。私もそれを聴いてちょっぴり分かる様な年代になって参りました。お二人はまだ若くて色々の事があって難しい話は分からんと思いますが、人間の本当の幸せは家を持ったから、大きい家を持ったから幸せか?大きいお金を持ったから幸せか?或はこれから新郎○○さんの地位がうんと上がったから幸せか?これもその時々にはその喜びは当然お持ちになる事と思いますが、私の母が言った言葉は《何事に於いても二人が揃って健康で、二人が揃って無我夢中に働いて乗り越えて行くその姿こそ本当の幸せなんだ》と言う話を私が聴いた訳でございます。
このスピーチは私の結婚式当日の媒酌人の話しの一部です。私の高校時代とは直接関係ありませんが高校生当時の人間関係と、この時の媒酌人の話は私のその後の人間形成
に大いに影響があった為敢えて掲載致しました。
そのスピーチの次の音楽(賛美歌515番)は私が高校時代に最も気に入った楽曲でしたので、この場面に採用しました。
私の結婚披露宴に於ける田所の司会ですが、この内容については私の高校時代とは特に関係がある訳ではありません。しかし彼は私の高校時代からの親友であり、どうしても忘れられない存在感のある男であり彼を偲んで敢えて掲載しました。
瑤子先生のスピーチは私の高校時代を担任教師の立場から適切に物語っております。ただ《大変優秀とは申しません》と言う件がありますが、これは結婚式に向けたかなり脚色した表現でした。正確な事実は《劣等生》でした。
以上3人の話は私の結婚以来約35年もの歳月を経て初めてその封印を解きここに掲載しました。これらの話は一生日の目を見る事は無いだろうと思っていましたが、この様な場面で有効利用出来て良かったと思っております。
私にとって《高校時代とは何だったのか?》と問われるならば《それは素晴らしい友人達や先生方との出会いの場であった》と答えます。生前田所はよく《友情》と言う言葉を口にしていました。私もその存在を信じます。私の高校時代は彼という友達が居たから楽しかったし、その後の人生も意義あるものだった様に思います。本文にもある通り校長先生の《俺、お前と呼び合える友達は今しか出来無いぞ!》や藤森先生の《本当の友人を作るのは今だけだぞ!》と言っていた言葉が今実感として身に染みております。何故なら今正にその通りなのですから。しかし彼はもうこの世におりません。彼が亡くなる前は何年間か年に数回でしたが彼の家に遊びに行きました。今思うにやはり彼に会って良かった、会えて良かったと心から思っております。それ以上に田所誠一郎に出会えて私の人生はラッキーでした。
先生についてですが、私の小学校1年〜大学4年迄の教師の中では高校1,2年当時の担任であった瑤子先生は私の事を《真面目》であると高く評価して下さいました。私は意識をしていませんでしたが心のどこかで《瑤子先生が好き》と言う潜在意識があった様です。他に成績が悪い為に私は落第するかも知れないという不安感があったのですが、瑤子先生から良く思われていたのでそれだけが救いでした
私の高校時代は象徴的な人物が二人いました。一人は恩師・磯貝瑤子先生であり、もう一人は親友・田所誠一郎でした。しかしこの二人は2006年に相次いで逝去してしまいました。お二人のご冥福を心からお祈り申し上げます。私の心の中が寂しくないと言えば嘘になります。しかし今心の底から二人にこう申し上げます。
《ありがとうございました》
私が2004年に出した高田高校のH.P.に関する事です。去るクラス会で元同級生の中島が私にこう言っていました。《こんな事今更書いて何になるのかなー?》と。それに対する私の答えは次の通りです。
① 自己満足の為
文章を書くのが私の趣味であり、他人を非難・中傷した訳でも無く本当の事をありのままに忠実に表現し再現する事によって、動かぬ事実としての実像を描きたかったのです。
② 私の作品=文章力を出版社がどう評価するか
その出版社からの感想文は次の通りです。
著者の高校時代の思い出が克明に描写されています。文章としてその思い出を綴るだけで無く、当時の教科書や通知表、写真迄盛り込み、リアリティをもって読み手に伝えています。
自分の高校時代を振り返る事によって現在の自分をとらえようとしている姿勢に、著者の独自性が感じられます。文章表現にもエネルギーがあり、その力に乗せられて一気に読み進める事が出来ました。英語学習の記述は、当時の英語教育の一面を垣間見る事が出来興味をそそります。また《各生徒》や《各先生》に関する思い出は、懐かしさが滲み出ており、その時々の情景はノスタルジックな趣があります。自分自身の中で一つの時代を振り返る事の素晴らしさを教えてくれる良書です。
この作品はその出版社のコンクールに応募し予選は通過しましたが入選は果たせませんでした。しかしその出版社から価値ある作品であると言われ出版化を勧められましたが個人的な事情があり見送りました。
著者から皆様へ
このH.P.の作成理由は私の心の故郷とも言える高校時代を徹底的に検証し、あの時代は私にとって何だったのか?当時を振り返って今の自分を見つめその結論を出したかったのですが・・・。結果的には単なる自己満足だったのかも知れません。普通人間は前を見て歩くものです。勿論私も例外ではありません。しかしこれを作るに当たり、思いっきり後ろを振り返って全エネルギーを注いでこの還暦記念作品を完成しました。私にとっての高田高校を描いたのです。しかし皆様にお願いがあります。それはこの高田高校に関する出来事、思い出、経験・体験談、或はこの高校の関係者では無くてもその情報をお持ちの方へ申し上げます。どんな小さな、又は些細な内容でも高田高校に関するお話を是非お聞かせ下さい。又この作品(落ちこぼれ高校生の3年間)に対するご意見・ご感想或はご批判等を戴ければ嬉しく思います。Eメールアドレスは次の通りです。
shichirigahama@nifty.com -
ここ迄お読み戴き心から感謝して御礼申し上げます。ありがとうございました。
では宜しくお願い申し上げます。
本作品の参考資料、利用施設、協力者等は次の通りです(敬称略)。心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。
ここでは西暦と元号(昭和)が混在しており統一性がありません。それはオリジナル資料の表示を忠実に再現した結果です。
① 朝日新聞(昭和39年10月3日他)
② 磯貝瑤子(高校時代の恩師=東京女子大学卒業)
③ インターネット(昭和史他)
④ 内田義二郎(媒酌人)
⑤ 嬉野館(パンフレット=修学旅行宿泊先)
⑥ 英語の教科書(旺文社=昭和40年印刷・発行の高校2年用、高田外語)
⑦ 彼女からの手紙(昭和40年11月24日消印他)
⑧ 結婚披露宴の模様(1976年10月9日)
⑨ 国鉄関連資料(行先表示板=西鹿児島〜熊本、切符=西鹿児島)
⑩ 国立国会図書館(蔵書=交通公社の時刻表1966年3月号、1975年8月号)
⑪ 住宅地図(1966年、2008年)
⑫ 昭和タイムズ(昭和39年〜昭和41年)
⑬ 昭和43年3月高田高校卒業生(氏名は本人の希望により割愛)
⑭ 新宿区立中央図書館(蔵書=テレビ番組表)
⑮ 高田高校資料(校章、成績表、生徒手帳、卒業アルバム、茶封筒、入学案内書等)
⑯ 田所誠一郎(高校時代の親友=日本大学卒業)
⑰ 東京オリンピックのレコード(日本ビクター)
⑱ 東京都私立公立高校受験案内(晶文社)=昭和39年度、昭和40年度
⑲ 橋本啓子(第四章の英語教師=中央大学卒業、現予備校講師)
⑳ 花園麗子(校歌・エレクトーン演奏)
さよーなら!《別れの音色》
みなさん、いかがでしたか?それではまた、さよーなら!