彼は正義感の強い個性的な性格で特に対人関係に於いては好き嫌いがはっきりしており、嫌いな奴とは口を利くのは勿論、顔を見るのも嫌だと言っていました。彼は大学卒業後ゴルフ会社に勤めたり、知能障害児の施設で働いたりしていました。ゴルフ会社も気に入っていましたが、特に知能障害施設の現場ではその子供達や父母からかなり親しまれて人気を博していたとの事です。しかし高校時代に発症した癲癇という病が加齢と共に徐々に進行した為泣く泣くそこを去り、神奈川県伊勢原市の自宅で療養の為に母親と一緒に住んでいました。外出が出来ない事は無かったのですが母親がこう言って止めていました。《万一の事があって他人に迷惑を掛け、取り返しの付かない事になっては大変だから》と。ですから私は彼の顔を見にその自宅へ年数回行っていました。私は冗談っぽく面白可笑しく喋るのですが彼は寡黙でした。そうゆう意味で私とは正反対だったから良かったのでしょう。しかし彼の母親はとても口が達者でした。
私の高校時代3年間の一番強烈な思い出は高2(17歳)の時にこの田所から誘われて初めて西武新宿駅前にあった喫茶店《ミカド》(その建物は今も健在でゲーセンとして営業中)に行った事です。この時私はこうゆう世界もあるんだと楽しく、嬉しく思いました。今迄の私には全く無縁の環境でしたから、その世界へ案内してくれた彼には今でも心から感謝しております。この後日だったか何年後だったか忘れましたが私は田所にこう質問しました。
私 あの時何故俺を誘ったんだ?
田所 面白そうな奴だから
友達が欲しいのにそれを作るのが苦手な私にとって救いの手を差し延べてくれた彼には心の底から感謝しております。
もう一つの大きな、そして強烈な記憶は卒業式の5日前に新宿で彼が《ナンパをやろう》と言い出して、私が渋っていても勝手に二人連れの女に声を掛けそのまま同伴席に行った事です。勿論それぞれのカップルは別席です。その直前、田所は真剣な面持ちで私にこう言っていました。《キスだぞ、絶対にキスだぞ》と。それが終わって改めて4人で普通の喫茶店に行きました。相手の女の歳を田所が聞いたら18歳と19歳だと言っていました。田所はこう言っていました《僕っていくつに見えるかな?》と。これは彼の常套句でした。女は《男って手が早い》と言っていました。女達との解散後私はこの意味を彼に聞きました。そしたら彼の答えはこうでした。《女と一発やる事だよ》と。しかし彼も高3の時に《美代子》と言う同い年の女性に恋をしたのですが振られて深刻に悩んでいました。その時同級生であり親友でもあった土屋からこう言われました。
土屋《そんなに好きなら何故モノにしなかったんだ!》
田所《そんなんじゃない!》
土屋《何綺麗事を言ってるんだ!男と女の関係でそれ以外に何があるんだ!!》
田所《・・・・・》
土屋《幼稚園のままごとをやっているのか?そしてプラトニック・ラブか?》
田所《・・・・・》
私 《そこ迄言う事は無いだろう》
土屋《それならお前にも言うぞ》
私 《何の話だ?》
土屋《お前は女と同伴席に行って何もしなかったんだって?もったいない》
私 《俺は紳士的に振舞っただけだ》
土屋《じゃあ紳士は女とSEXしないのか?》
私 《・・・・・》
更に別の話で
土屋《お前の尊敬する人物は?》
私 《ガンジーだ》
土屋《何故だ?》
私 《非暴力主義だからだ。どんな事があっても暴力を絶対に行使しない点が気に入っている》
土屋《だったらお前は無抵抗のまま一方的に殴り殺されてもいいのか?》
私 《それでやられたとしても俺は自分の主義・主張を最後迄貫き通した勝利者だ》
土屋《自分の命が一番大事だろ、青臭い理想論を振りかざした処で何の特にもならないし第一本当にそんな事が実行出来るのか?》
私 《・・・・・》
土屋《俺の言っている事は間違っているか?》
私 《・・・・・》
私は田所と共に成城学園にある土屋の家に行って大盛りカレーライスを3杯喰った事もあれば、初めてやるマージャンを凄く面白いと感じた事もありました。
田所は土屋と共にこの高田高校創立以来初めて弓道部、写真部以外の部(野球部)を創設したのです。田所が高2の時に千駄ヶ谷にある東京高野連へ一人で行き東京都大会への出場申し込みをしたのです。しかしそれに出られるのは1年後であると言われ、それを了承して彼が高3の時に初めて甲子園を目指して東京都大会に出場しました。監督は保健体育担当の藤森先生でした。しかし大変残念な事に1回戦で敗退してしまいました。その翌年3月に田所は高校を卒業した為野球部のメンバーではありませんでしたが、監督は我々の1年先輩の生徒であった長束(当時慶応大学の学生)がやり、1回戦は見事に突破したのですが2回戦で敗退してしまいました。その次の年つまり高田高校とその野球部が最後になる1968年夏の野球部監督は田所がやりました。しかし1回戦で敗退し高田高校野球部は僅か3年でしたが1勝3敗で終わりました。でも田所はこう言って当時の事を偲んでいました。《青春の全情熱を傾ける事の素晴らしさを実感出来た時代だった》と。
田所が母親と一緒に住んでいた家は1960年代の建物ですが、かなりしっかりとした建築が成されており、今も丈夫で現在はその母親が一人で生活をしております。家の中は何と無く雑然としておりますが、レトロ風味満点の田舎の家と言った感じです。ですからたまにここに行くと高校生当時の気分になれるのでそれも魅力の一つでした。
処で先程田所の事を《寡黙》だと言いましたが、確かに昔同級生の長谷部からサテンで《田所って大人しいな》と言われて田所はむっとしていました。しかし田所は私や田中みたいに軽々しく軽率な発言をしなかったと言う事なのです。ですから田所の発言は重厚感がある様に思いました。その田所の言葉に対して私は調子のいい面白い事を言うと彼は半分悔しがり、半分は喜んでいました。
いつの事だったか忘れてしまいましたが、田所は山手線の最後部の車掌室の直前のドアに乗ろうと急いでいましたが間一髪アウトになって、俺にこう言いました。《パッとやろうぜ》と。私は何の事か分からなかったのですが、彼は車掌にじゃんけんのパーをやって見せたのです。走り出した車両から車掌は田所を睨んでいました。他に彼は小田急線の車内で喫煙をしていて乗務員から注意された事もありました。
高校何年だったのか忘れてしまいましたが石毛が私にこう言っていました。《川本と田所が喧嘩をして田所が首投げで負けた》と。その事を後日田所に正した処《ミスがあった》と言っていました。
私と田所は高3になってからよくサテン(喫茶店=ミカド)に行きました。誘うのはいつも田所であり、教室で私に《授業をさぼってサテンに行こうぜ》と言うのですが、私は気が乗らないので適当に返事を濁していたらしつこくこう言って来たのです。
彼 《これからサテンに行こうぜ》
私 《パスする》
彼 《何故だ?》
私 《余り行きたくないから》
彼 《駄目だ、それでは理由にならない》
私 《勘弁してくれ》
彼 《どうしても駄目だ、行くぞ!》
私 《金が無い》
彼 《俺が出す!》
私 《全くお前ってしつこいな、参ったよ》
彼 《始めからそう言えばいいじゃん》
しかし田所とそうして行くサテンは授業をさぼるという意味では若干の罪悪感がありましたが、実に素晴らしい快適性や快感を感じた事も事実でした。
そのサテンでの出来事です。
① そのサテンのドアガールから《高校生でしょ?》と言われました。
② 田所がよく吸っていた煙草はロングピースでした。空気とおっぱいだけにしておけばよかったのに。
③ 私と田所がその店でコーヒーを飲んでいたら私服警察の補導員が来たので彼はビビッていました。しかし私は平然としていました。何故なら悪い事をした訳ではなかったのですから。
④ 注文を取りにきた係員に私は《ブランデー》と言ったらその係員は《はあ?》と言ったので私は再度《ブランデー》と言ったら本当に持って来ました。ウィスキーみたいな味がしてやっぱりコーヒーにすれば良かったと後悔しました。
⑤ このサテンのモーニングサービスはトースト食べ放題だったので、昼飯として私は最高で40枚食べましたが、流石に晩飯は全く食べる気がしませんでした。明らかに食べ過ぎでした。
他にユニークなサテンもありました。例えば《シオン》という名の店のコーヒー(100円)はモーニングサービスとして次の三者択一でした。
?ショートホープ1箱
?ショートケーキ1個
?コーヒー1杯50円(最初から50円のコーヒーのみを選択する事も可能であり、その場合??は不可)
⑤ 私はコーヒーを飲む時はいつも砂糖をスプーンに山盛りで3杯、そしてミルクをたっぷり入れていました。しかし今はブラック党です。
《王城》というサテンは外観が西洋の城でしたが内部はごく平凡な造りでした。
そのサテンの名前は忘れてしまいましたが私はネクタイの結び方を田所から教えてもらいました。しかし対面(向き合って)で座っていたし、私は人一倍物覚えが悪いのでとても苦戦し、それを見ていた店の人から笑われてしまいました。
しかしそれにしても私は高3で大学受験勉強をやらなくてはいけない立場なのにいつも田所から誘われると《まあいっか》とその誘惑に負けてよくサテンに行きました。ですからその結果思惑通りの大学には行けませんでした。最もそれは私の学力が無かった為と要領よく積極的な努力をしなかった結果なのです。当時のサテンでよく流れていた音楽は《この胸のトキメキを》(梓みちよ)、《恋のハレルヤ》(黛ジュン)、《ローマの雨》(ザ・ピーナッツ)、《想い出の渚》(ワイルドワンズ)、その他ビートルズナンバーの曲等でした。
サテンで田所がよく飲んでいた物はホットコーヒーであり、吸っていた煙草はロングピースでした。よくその煙を私に吹き掛けていました。今思えば煙草なんてナンセンスその物でした。
高2の2学期の期末試験でしたが田所は数学のセンコウ(林)を嫌って私に《試験を白紙でだそうか?》と言っていました。私は《YES》とは言いませんでしたが結果的には赤点でした。その通知表を受け取る直前に夢を見ました。それが赤点である事の。それが当たって赤点でした。中間試験では赤点では無かったのに。こんな結果になるのなら田所の言った様に一緒に白紙で出せば良かったと後悔しました。
私と田所が二人で外を歩く時いつも彼が私より先に行ってしまうので私としては余り面白く無いので私が無断で消えたらわたしの家に電話をして来て怒っていました。それに対し私はこう言って抗弁しました。《お前がどんどん先に行ってしまうから分からなくなっちまったんだよ》と。その弁解について余り納得していないみたいでした。
私が48歳の時に瑤子先生と新宿にあるホテル、パークハイアット東京でデートした事があります。その時田所の話が出て彼女がこう言っていました。《田所君が試験の時にカンニングをしたのでそれを取り上げたわ》と。その後私は田所の家に行った時、本人にこの事を言ったのですが《記憶に無い》と言っていました。
ボーリングは高校時代に田所から誘われて初めてやり、その後高校を卒業してからも田中を含めて3人でやった事が何回かありました。田所が《フェアーレーンへ行こうぜ》と言い出してそこでプレーをやったのです。その場所は小田急線・南新宿駅近くにありました。他には高田馬場で私は気が進まなかった
のですがその2人に押されてビリヤードをやった経験があります。
私が初めてスーツを買ったのは高校3年の卒業前で、新宿小田急百貨店でマネキンが着ていた茶色で3ボタンのセンターベンツでした。金額は1万9千円でした。勿論田所に付き合ってもらいました。
私が大学1年の時ですが、田所と新宿南口にあった小田急線と国鉄(現JR)との連絡口で待ち合わせをしていた時の事です。彼は遅刻常習犯で何時も私が待たされていました。当然その時も待たされ1時間待っても来なければ引き上げるつもりでした。何と彼は59分も遅れて《悪い》と言って来たのです。しかしお互いに金を持っていなかったので、田所は《女に金を借りるんだ》と言って借りに行きました。それは彼の中学時代の同級生で京王百貨店に勤務する店員(社員)でした。私もその場に同席してその女を見ました。そして田所と二人になった時に私は《その女を気に入ったので紹介してくれ》と言ったのです。後日、田所からの返事はその女が《友達ならいいわ》と言っていたとの事ですが、結局そのままになってしまいました。しかしその時の華やかなデパートという印象が私の頭の中にあったのか、私は大学4年になり就職試験のシーズンとなり結局百貨店に就職する事になりました。
彼が逝去する1,2年程前でしたが彼の自宅へ行った際、彼が席を外した時に私は母親にこう質問をしました。
私 《彼は健康診断を受けているの?》
母親《今更ねー》
私 《確かに癲癇の薬を飲んでいてその為の異常値はあるにしても、それ以外の部分で何かが発見されるかも知れない》
母親《でもねー》
しかしこの話題はそれ以上に進展しませんでした。
今思うにこの話はもっと積極的・前向きの姿勢で強力に推進させるべきで
あったと思います。何故なら私が49歳(1998年)の時に特に親しくし
ていた生涯独身の叔父を脳梗塞の為に失ったからです。彼は健康診断を受け
ていませんでした。私はその時検診の重要さ・大切さを理解し、認識してい
たにも係らずそれを忘れて彼に対し検診を強く勧めなかったのです。正に痛
恨の極みです。
私は27歳で結婚しましたが、その時田所に司会を依頼し快く引き受けてもらいました。その結婚披露宴に於ける彼の声の一部をここに公開致します。これは現存する田所の唯一の音声でありカセットテープに保管してあります。その内容は次の通りです。尚彼の声のみに照準を絞ってありますので参列者のスピーチは除外しました。これは高校時代とは直接関係ありませんが、今は亡き彼を偲んで敢て掲載しました。彼が亡くなってからこの録音テープを初めて聴いたのですが、とてもよくやってくれたと心から感謝しております。
《田所誠一郎の司会》
皆様これより○○家・○○家御両家の結婚披露宴を開かせて戴きます。私は新郎の高校時代の友人・田所誠一郎と申す者ですが、本日は司会と言う大役を承りました。不束な私の司会ではございますが、皆様のご協力とご支援を宜しくお願い申し上げます。それでは開演に当たりましてこのおめでたいご結婚のご媒酌の労をお取り下さいました、三井生命保険相互会社保険部部長・内田義二郎様にご挨拶と新郎・新婦のご紹介をお願い申し上げます。尚誠に恐れ入りますがご媒酌人ご夫妻、新郎・新婦ご両親はご起立下さいます様お願い申し上げます。
どうもありがとうございました。どうぞご着席下さい。
既にご存知の方も多い事と思いますがご媒酌人・内田様は新郎の父○○幸一様とは三井生命入社同期生で36年にもなる親友であられ、各地支社長を歴任されておられます。今後共益々ご健勝にてご活躍下さいます様皆様方と共にお願い申し上げます。
どうもありがとうございました。
それでは次に新郎側ご来賓を代表して戴きまして株式会社三越東京配送部部長浅香辰夫様にご挨拶とご祝辞をお願い申し上げます。
どうもありがとうございました。
それでは次に新婦側ご来賓を代表して戴きまして三井信託銀行外国部総務課課長伊藤弘明様にご挨拶とご祝辞をお願い申し上げます。
どうもありがとうございました。
皆様これより新郎・新婦が手に手を取り協力の第一歩と致しまして仲良くウェディングケーキにナイフを入れますので、皆様祝福の拍手をお送り下さいます様お願い申し上げます。カメラをお持ちの方はどうぞ宜しい位置迄お進みご撮影下さい。祝福の拍手をお送り下さいましてどうもありがとうございました。
これより新郎・新婦の幸福な門出を祝して、新郎の父とは従兄であり三井不動産株式会社顧問、三野村合名会社社長であり、曽祖父であられました三野村利左衛門様が明治維新当時三井家で活躍の獅子であり三井物産、三井銀行等の創立者であられました三野村清一郎様の音頭で乾杯させて戴きたいと存知ます。皆様グラスをお持ちの上ご起立下さいます様お願い申し上げます。
それではこれより披露式より披露宴に入らせて戴きます。皆様ごゆっくりとお召し上がりご歓談下さい。尚誠に勝手ながら新婦お色直しの為約30分程中座させて戴きます。皆様宜しく御了承の程お願い申し上げます。
お食事、ご歓談中の処誠に恐れ入りますが、装いも新たに一段と美しい姿で新婦の入場でございます。拍手を以ってお迎え下さいます様お願い申し上げます。装いも新たに一段と美しくなられた新婦を迎え新郎・新婦仲良く寄り添いました処で皆様よりお祝辞やお唄等を戴きたいと存じます。
最初に三井信託銀行外国部総務課課長代理池田光久様よりお祝辞をお願い申し上げます。どうもありがとうございました。
それでは次に新婦の祖母であられます今治福江様に日本独自の物である唄いをお願い申し上げます。どうもありがとうございました。
それでは次に新郎の高校時代の担任の先生であられました磯貝先生に何か一言お願い申し上げます。どうもありがとうございました。
皆様私がかつてフランスに居りました頃、フランスの友人からフランスの諺に結婚式のお料理を新婦から新郎の口へ食べさせますとその後手作りの料理にケチを付けず、家庭円満がなるという事を聴きましたのでこれから新郎・新婦にそれを実演して戴きたいと思います。
それでは次に新婦の友人・山戸史子様にお祝いのお気持ちをお願い申し上げます。
《中略》
新郎・新婦よりご両親に花束贈呈でございます。皆様拍手をお添え下さいます様お願い申し上げます。皆様拍手をお添え下さいましてどうもありがとうございました。
皆様方と新郎・新婦を囲みお祝辞やお唄等ご披露して戴いている中披露宴もお開きの時間が近付いて参りました。そこでご両家を代表致しまして三井生命保険相互会社では三井系各社との営業関係を担当され営業関係のベテランとして活躍されている新郎の父○○様より皆様へお礼のご挨拶があります。今暫らくご静聴賜ります様お願い申し上げます。ご静聴どうもありがとうございました。
本日は色々とありがとうございました。お蔭様で結婚式も披露宴もつつがなく相済ます事が出来ました。お名残惜しい気持ちですが時間が参りましたのでこれを以ちましてお開きにしたいと思います。不束な私の司会ではございましたが、皆様のご協力とご支援を戴きまして本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。尚新郎・新婦は九州へ新婚旅行へ出発し15日に帰京の予定です。今後共宜しくご指導・ご鞭撻賜わります様両人に代わってお願い申し上げます。本日は本当にありがとうございました。
2006年7月のある日の事です。私は田中と一緒に病院に入院して居る田所を見舞いに行きました。その時彼の母親からこう言われました。《何か言う事があるのなら今のうちに》と。そこで私は彼にこう言いました。《俺には配偶者、子供、孫、妹が居るし両親も健在だ。しかし俺がまともに向き合って語れる相手はお前だけだ》と。そうしたら彼は微笑んでこう言いました。《そうか》と。確かに彼は私にとって高校生気分になって話が出来る唯一の相手でした。他に次の会話もありました。
私《お前の家に行くといつも豚カツだけど今度は違う物を用意してくれよ》
彼《ああいいよ》
私《じゃあ来月行くから頼むな》
彼《ああ待ってるよ》
しかしその約束は果たされる事無く間も無く彼はこの世を去ってしまいました。私のささやかな夢は還暦を過ぎて暇になったら2〜3ヶ月に1回は彼の家に行き、午前中の早い時間からアルコールを飲みながらお互いに語り合う事だったのですが・・・・・。私と彼は価値観を同じくする者同士としてもっと、もっと、もっと話をしたかったのに・・・。とても残念でなりません!
《癲癇》
それは彼が高校2年(17歳)の時に発症しました。それは彼が亡くなる迄40年も続き症状も徐々に進行して行きました。正しく不治の病であり、それを知っている私も辛かったのですが、一緒に暮らしていた母親の心境を思うと・・・・・。母親は彼の癲癇が発症する度に克明な記録をノートに付けて専門医とも相談していたのですが、それが彼の為に必ずしも有効利用されなかった結果を思うと、とても残念でなりません。子を思う母親の気持ちは痛い程良く分かりました。しかし彼にとって母親と二人で過ごし・暮らした、晩年迄の数年間が一番心穏やかで、平穏な日々だったと思われます。そうゆう彼でしたが私は彼の友達であってとてもラッキーな人生だったと自負しております。亡くなる迄、年に数回でしたが彼の家に会いに行きました。今思うにそうやって会っておいてよかった、会えてよかった、そして私の人生で彼との出逢いがあって本当によかったと心からそう思っております。また、そうゆう環境を与えてくれた彼とその母親にも心から感謝しております。
田所誠一郎の直接の死因は胃癌であり2006年8月13日に57歳で逝去しました。この日は日曜日で私は田中清一と昼から飲んでいました。そこへ彼の母親から電話があり《会うのなら今すぐに!》と言われ大急ぎで伊勢原の病院へ行き、生前の彼に会う事が出来ました。彼はこん睡状態で私の事は認識出来ませんでしたが、私の到着を待っていたのか間も無く息を引き取りました。ですからこの日は私が彼の臨終に立ち会い、無言の帰宅に付き合った日でもありました。私にとってはとても悲しく、残念な日であり、痛恨の別れでした。しかし最後の場面に立ち会う事が出来て心から感謝しております。今はただひたすら彼の冥福を祈るだけです。
これは田所誠一郎から最後に受け取った年賀状です。彼が亡くなる8ヶ月前に彼自身が書いた物です。
